2008年02月29日
今日のランチ
陸の牛より、水牛の肉は柔らかくて美味しいです。
オーダーはペッパーステーキで出てきます。
レストラン入り口です。
店舗名 Bar-B-Q Tonight
バーベキュー・トゥナイト
TEL:5832841
所在地 5/1, Boat Basin, Block5,
Clifton, Karachi, Pakistan
2008年02月09日
車購入(9台目)
過去に乗った車です。

ファミリア800cc中古車(マツダ)
20歳から21歳にかけて
乗っておりました初代ファミリアです。
コンソルテベルリーナ1000cc中古車(ダイハツ)
21歳から22歳にかけて
乗っておりました。トヨタパブリカと兄弟車でした。
セドリック1900cc中古車(日産)
22歳から23歳ときに乗っておりました。
初代セドリックです。
前列シートを倒すと
フルフラットになり使い勝手のいい車でした。
ライフ360cc新車(ホンダ)
23歳から25歳まで乗っておりました
初代ライフです。初めて購入した新車です。
軽360ccで4ドア車は、マツダキャロル以来でした。
シビック1500cc新車(ホンダ)
26歳から28歳まで乗っておりました
初代シビックです。
コロナマークⅡ6気筒 2000cc新車(トヨタ)
29歳から49歳まで20年間乗っておりました
マークⅡグランデです。お気に入りの1台でした。
熊本在住時代に熊本トヨペットで購入しました。
ハイエースレジアス3000cc新車(トヨタ)
50歳から55歳まで乗っておりました。
初めて購入したジーゼル車です。
CR-V2000cc中古車(ホンダ)
56歳から58歳の現在
パキスタンで乗っている
初代CR-Vです。
2年前のカラチ赴任時にハイエースレジアスを売却しました。
カラチではCR-Vを購入して通勤に使っております。
帰国して5月から乗る車を決めないといけません。
大きい車が好きなのですが、これだけガソリン価格が上昇しますと
燃費を考え一回り小さくせざるをえません。
家族4人ですので、多人数乗車の車はいりません。
ハイエースレジアスに乗るまでは、車は4ドアセダンと決めておりましたが
ワンボックスカーを経験しますとセダンは窮屈に思え選択肢の外です。
一回くらいキャンピングカーを持ってみたいと思ったりもします。
アメリカみたいに街中に給排水、電気供給設備等の整備された
キャンピングカーパーキングがあればいいのですが、
そういう施設はありませんし、日本の狭い道路に
キャンピングカーはマッチしないように思え、夢に終わっております。
しかし、車中泊が楽にできる車を探しておりました。
車は単なる移動ツールに終わらせたくなく
駐車中も、車内は快適な空間であり、
安らげるスペースの空間を持つ車を探しておりました。
車中泊が楽にできる車、この一点に絞って探した結果、
ヴォクシー・トランスXにたどりつきました。ノア・YYも兄弟車です。
両者を比べ、二者択一、天秤にかけた場合にメカニックは変わりありませんが、
ノア・YY(のあ・わいわい)よりもヴォクシー・トランスXの方が
発音しやすく、かっこよく耳に響きます。
ミーハーですがネーミングの響きで、車を決めました。
個性的な顔をしているのも気に入りました。
どこの販売店で買うかは、まだ決まっておりませんが、
9台目の購入車はヴォクシー・トランスXに決めました。
ファミリア800cc中古車(マツダ)
20歳から21歳にかけて
乗っておりました初代ファミリアです。
21歳から22歳にかけて
乗っておりました。トヨタパブリカと兄弟車でした。
22歳から23歳ときに乗っておりました。
初代セドリックです。
前列シートを倒すと
フルフラットになり使い勝手のいい車でした。

23歳から25歳まで乗っておりました
初代ライフです。初めて購入した新車です。
軽360ccで4ドア車は、マツダキャロル以来でした。
26歳から28歳まで乗っておりました
初代シビックです。
29歳から49歳まで20年間乗っておりました
マークⅡグランデです。お気に入りの1台でした。
熊本在住時代に熊本トヨペットで購入しました。

50歳から55歳まで乗っておりました。
初めて購入したジーゼル車です。
56歳から58歳の現在
パキスタンで乗っている
初代CR-Vです。
2年前のカラチ赴任時にハイエースレジアスを売却しました。
カラチではCR-Vを購入して通勤に使っております。
帰国して5月から乗る車を決めないといけません。
大きい車が好きなのですが、これだけガソリン価格が上昇しますと
燃費を考え一回り小さくせざるをえません。
家族4人ですので、多人数乗車の車はいりません。
ハイエースレジアスに乗るまでは、車は4ドアセダンと決めておりましたが
ワンボックスカーを経験しますとセダンは窮屈に思え選択肢の外です。
一回くらいキャンピングカーを持ってみたいと思ったりもします。
アメリカみたいに街中に給排水、電気供給設備等の整備された
キャンピングカーパーキングがあればいいのですが、
そういう施設はありませんし、日本の狭い道路に
キャンピングカーはマッチしないように思え、夢に終わっております。
しかし、車中泊が楽にできる車を探しておりました。
車は単なる移動ツールに終わらせたくなく
駐車中も、車内は快適な空間であり、
安らげるスペースの空間を持つ車を探しておりました。
車中泊が楽にできる車、この一点に絞って探した結果、
ヴォクシー・トランスXにたどりつきました。ノア・YYも兄弟車です。
両者を比べ、二者択一、天秤にかけた場合にメカニックは変わりありませんが、
ノア・YY(のあ・わいわい)よりもヴォクシー・トランスXの方が
発音しやすく、かっこよく耳に響きます。
ミーハーですがネーミングの響きで、車を決めました。
個性的な顔をしているのも気に入りました。
どこの販売店で買うかは、まだ決まっておりませんが、
9台目の購入車はヴォクシー・トランスXに決めました。
2008年01月27日
胃カメラ
数年ぶりに胃の内視鏡検査をしました。
アルコールはそんなに飲める方ではありませんので、
暴飲暴食をしたわけではありませんが、今月の2日頃から、
胃の具合が悪くなりまして、食欲がなく食事をほとんど取れなくなり
絶食しておりましたら、5日は嘔吐感で水も飲めなくなりました。
5日は小生の58回目の誕生日でしたが、夜は最悪で、脈拍は安静に寝ていても
120打ち脱水症状を起こしたのか、頭も軽く締め付けられるような感じで
体はふらふらで、横になっていても
身の置き所がないような苦しい状態になりました。
6日7日と点滴をしてもらい脱水症状は治まりました。
胃袋内部の状況は直接見ないと分りませんので、検査を受けようと思いましたが、
使いまわしする胃カメラからの、感染症 (ウィルス性肝炎、エイズ、梅毒等) に
パキスタンでは不安があるとのアドバイスを受け1月9日から10日間
急遽帰国いたしておりました。
検査の前日に血液検査をしました。
自分が感染症 に罹っていた場合に、
使いまわしする胃カメラを通じて他人に病気をうつすさないためです。
今まで数回、胃の内視鏡検査をしましたが、
内視鏡検査のための血液検査をしたのは初めてでした。
内視鏡検査のための血液検査をする病院が
あると言うことは、胃カメラを通じて感染症がうつった事例があるのか
もしくは、胃カメラを通じて感染症がうつるリスクがあると言うことでしょう。
そうで、なければ、わざわざ検査前に血液検査をする必要はないでしょうから。
人間ドック検診では今でも、胃の内視鏡検査をする人を感染症から守るための
血液検査はしていないようですが、大丈夫なのでしょうか。
一応、胃カメラを消毒するらしいですが、人間ドックは不特定多数の大人数が
使い回すものですから、検査による感染症の心配がないように願いたいものです。
去年の12月に帰国したばかりでしたが、
今月9日帰国し11日初診を受け12日胃の内視鏡検査をしました。
結果は胃壁にびらんがあり、出血した痕があるものの、
胃に関しましては悪い病気ではありませんでした。
場合によっては入院も覚悟しておりましたのでホッとしました。
ただ、夜安静に寝ていて脈拍が120を超える症状は、血液検査の結果
18年前患った甲状腺機能亢進症の再発でした。
18年前はメルカゾールを処方してもらい、半年位服用し症状が治まったので
自分で勝手に判断し薬をやめてしまいまい、
その後自覚症状がありませんでしたが、
カラチに来てストレスやらなにやらで再発したものと思われます。
メルカゾールを処方してもらい飲んで症状を押さえております。
20代の頃の体重はマックスで78Kgというときもあり、
子供の頃からデブ気味で、30代、40代は体重を抑えて65Kg前後でした。
カラチ赴任生活のストレスか最近は55Kgでしたが、
1週間の絶食と甲状腺機能亢進症の代謝異常のダブルの影響を受け
47Kgまで落ち込み、自分でもびっくりしました。
19日日本を出国しカラチに戻る時点では50Kgまで回復しました。
今は52Kgです。任期終了の4月末までには、
60Kgを目標に、体重を戻そうと思っております。
胃痛のため、1週間の絶食を経験しまして、
普通に食事ができることのありがたさを、今更ながら思い知りました。
アルコールはそんなに飲める方ではありませんので、
暴飲暴食をしたわけではありませんが、今月の2日頃から、
胃の具合が悪くなりまして、食欲がなく食事をほとんど取れなくなり
絶食しておりましたら、5日は嘔吐感で水も飲めなくなりました。
5日は小生の58回目の誕生日でしたが、夜は最悪で、脈拍は安静に寝ていても
120打ち脱水症状を起こしたのか、頭も軽く締め付けられるような感じで
体はふらふらで、横になっていても
身の置き所がないような苦しい状態になりました。
6日7日と点滴をしてもらい脱水症状は治まりました。
胃袋内部の状況は直接見ないと分りませんので、検査を受けようと思いましたが、
使いまわしする胃カメラからの、感染症 (ウィルス性肝炎、エイズ、梅毒等) に
パキスタンでは不安があるとのアドバイスを受け1月9日から10日間
急遽帰国いたしておりました。
検査の前日に血液検査をしました。
自分が感染症 に罹っていた場合に、
使いまわしする胃カメラを通じて他人に病気をうつすさないためです。
今まで数回、胃の内視鏡検査をしましたが、
内視鏡検査のための血液検査をしたのは初めてでした。
内視鏡検査のための血液検査をする病院が
あると言うことは、胃カメラを通じて感染症がうつった事例があるのか
もしくは、胃カメラを通じて感染症がうつるリスクがあると言うことでしょう。
そうで、なければ、わざわざ検査前に血液検査をする必要はないでしょうから。
人間ドック検診では今でも、胃の内視鏡検査をする人を感染症から守るための
血液検査はしていないようですが、大丈夫なのでしょうか。
一応、胃カメラを消毒するらしいですが、人間ドックは不特定多数の大人数が
使い回すものですから、検査による感染症の心配がないように願いたいものです。
去年の12月に帰国したばかりでしたが、
今月9日帰国し11日初診を受け12日胃の内視鏡検査をしました。
結果は胃壁にびらんがあり、出血した痕があるものの、
胃に関しましては悪い病気ではありませんでした。
場合によっては入院も覚悟しておりましたのでホッとしました。
ただ、夜安静に寝ていて脈拍が120を超える症状は、血液検査の結果
18年前患った甲状腺機能亢進症の再発でした。
18年前はメルカゾールを処方してもらい、半年位服用し症状が治まったので
自分で勝手に判断し薬をやめてしまいまい、
その後自覚症状がありませんでしたが、
カラチに来てストレスやらなにやらで再発したものと思われます。
メルカゾールを処方してもらい飲んで症状を押さえております。
20代の頃の体重はマックスで78Kgというときもあり、
子供の頃からデブ気味で、30代、40代は体重を抑えて65Kg前後でした。
カラチ赴任生活のストレスか最近は55Kgでしたが、
1週間の絶食と甲状腺機能亢進症の代謝異常のダブルの影響を受け
47Kgまで落ち込み、自分でもびっくりしました。
19日日本を出国しカラチに戻る時点では50Kgまで回復しました。
今は52Kgです。任期終了の4月末までには、
60Kgを目標に、体重を戻そうと思っております。
胃痛のため、1週間の絶食を経験しまして、
普通に食事ができることのありがたさを、今更ながら思い知りました。
2008年01月23日
フレア・ホール
ジンナー公園(Bagh-E-Jinnah)の中央にあるコロニアル調の建物です。
シンド地域の近代化に寄与したシンド・コミッショナーのバール・フレアを記念して1863年に建てられたもので
シンド、ボンベイ王室の王室技師コール・クレア・ウィルキンスの設計だそうです。
一階が図書館、二階がギャラリーとなっているそうです。
道路向かいに米国総領事館があり、
自爆テロを警戒して、周囲は厳重な警戒態勢です。
現在は警備上の問題で一般公開されておりません。
日本国総領事館に隣接しております。
2007年12月26日
犠牲際(バクラーイード)
バイクの3人乗り、4人乗り、5人乗りはカラチではよく見かける光景です。
バイク後部座席に横座りで、
乳飲み子を抱いた母親が乗っている光景は見ている方がハラハラします。

バイクに人と、山羊が一緒に乗っている光景は、カラチならではでしょう。
先週は犠牲際でした。
犠牲際の前になりますと、町中のあちこちで山羊が目につきます。
小生の住まい周りでも あちこちから
「べぇ~、べぇ~」 と山羊の鳴き声が聞こえてきます。
この鳴き声は、犠牲際を境にバッタリ静かになります。
山羊が鳴かなくなったのではありせん。山羊の命がなくなったのです。
犠牲際の日は、神に感謝し、豊かな者たちが、家畜(山羊、羊、牛、駱駝)を買い、
食べるため、屠殺して肉にし、自分たちも食べ、
親戚や貧しい人々やモスクなどにも配るそうです。
日本では家畜の屠殺場面を目にすることはありませんが、
カラチでは、
犠牲際という行事で家畜の屠殺場面が日常の生活に入り込んでおります。
メイン道路や裏通り上が屠殺場所になります。
こういう、殺傷の場面を子供の目に晒すことは、
教育上はどうなのかと、思われる方もいらっしゃるでしょう。
日本だと、そこここで行われる屠殺を槍玉に挙げて、
残酷なことは、子供の目に触れるところではやめろと、なるでしょう。
ところが、ここカラチでは子供達は全てを見るわけです。
頭や喉を撫ぜられると人に頭を摩りつけていた、
さっきまで、「べぇ~、べぇ~」と鳴いていた山羊や羊が、大人に押さえつけられ、
のど首を切られ、血を噴いて死ぬ瞬間。 皮を剥ぎ、肉片になるまでの解体作業。
そしてそれがおいしい料理になって自分が味わうまでを。
日本では、スーパーに行けば、肉は調理しやすい大きさに小分けされ、
自分が家畜の命を食んで生きている実感はなんにもありません。
食事をすると言うことは他の生き物の命を奪うということで、
魚も切り身で泳いでいるわけではなく、
肉もスライスやひき肉で歩いているわけでなないということを、
「人がものを食べて生きている」 ということはこういうことであるということを、
実感として知る機会があっても、良いのではないでしょうか。
自爆テロ等、物騒なイスラム社会ですが、
一部のテロ集団を除いた一般イスラム社会では、
お金目当てや目的のわからない殺人などの発生はあまりありないそうで、
子供も犬や猫などの小動物をいじめることが少ないそうです。
殺生事を忌み嫌い、死というものをなるべく目にしない、
不吉な物を遠ざけてきた超クリーンな日本の生活の中では、
こういった違うイスラム文化の中に生き残っている習慣を残酷だとか、
野蛮だと一言でかたづけてしまいそうですが、
むしろそういう場面を見ることが、教育上必要なことかも知れません。
自分達の生が、多くの生き物の死によってささえられている現実を、
小さい頃から学習できるなら、
猫の頭を切り離して公園に投げてみたりする愉快犯的な事件、猫の頭どころか、
人間の頭を小学校校門へ置く分けのわからない、猟奇的な事件。
人を殺してみたかったなんでいう理由のない殺人事件は起こらないのではと、
ピクピク痙攣しながら息絶えていく羊を見ながら思いかたでした。
バイク後部座席に横座りで、
乳飲み子を抱いた母親が乗っている光景は見ている方がハラハラします。
バイクに人と、山羊が一緒に乗っている光景は、カラチならではでしょう。
先週は犠牲際でした。
犠牲際の前になりますと、町中のあちこちで山羊が目につきます。
小生の住まい周りでも あちこちから
「べぇ~、べぇ~」 と山羊の鳴き声が聞こえてきます。
この鳴き声は、犠牲際を境にバッタリ静かになります。
山羊が鳴かなくなったのではありせん。山羊の命がなくなったのです。
犠牲際の日は、神に感謝し、豊かな者たちが、家畜(山羊、羊、牛、駱駝)を買い、
食べるため、屠殺して肉にし、自分たちも食べ、
親戚や貧しい人々やモスクなどにも配るそうです。
日本では家畜の屠殺場面を目にすることはありませんが、
カラチでは、
犠牲際という行事で家畜の屠殺場面が日常の生活に入り込んでおります。
メイン道路や裏通り上が屠殺場所になります。
こういう、殺傷の場面を子供の目に晒すことは、
教育上はどうなのかと、思われる方もいらっしゃるでしょう。
日本だと、そこここで行われる屠殺を槍玉に挙げて、
残酷なことは、子供の目に触れるところではやめろと、なるでしょう。
ところが、ここカラチでは子供達は全てを見るわけです。
頭や喉を撫ぜられると人に頭を摩りつけていた、
さっきまで、「べぇ~、べぇ~」と鳴いていた山羊や羊が、大人に押さえつけられ、
のど首を切られ、血を噴いて死ぬ瞬間。 皮を剥ぎ、肉片になるまでの解体作業。
そしてそれがおいしい料理になって自分が味わうまでを。
日本では、スーパーに行けば、肉は調理しやすい大きさに小分けされ、
自分が家畜の命を食んで生きている実感はなんにもありません。
食事をすると言うことは他の生き物の命を奪うということで、
魚も切り身で泳いでいるわけではなく、
肉もスライスやひき肉で歩いているわけでなないということを、
「人がものを食べて生きている」 ということはこういうことであるということを、
実感として知る機会があっても、良いのではないでしょうか。
自爆テロ等、物騒なイスラム社会ですが、
一部のテロ集団を除いた一般イスラム社会では、
お金目当てや目的のわからない殺人などの発生はあまりありないそうで、
子供も犬や猫などの小動物をいじめることが少ないそうです。
殺生事を忌み嫌い、死というものをなるべく目にしない、
不吉な物を遠ざけてきた超クリーンな日本の生活の中では、
こういった違うイスラム文化の中に生き残っている習慣を残酷だとか、
野蛮だと一言でかたづけてしまいそうですが、
むしろそういう場面を見ることが、教育上必要なことかも知れません。
自分達の生が、多くの生き物の死によってささえられている現実を、
小さい頃から学習できるなら、
猫の頭を切り離して公園に投げてみたりする愉快犯的な事件、猫の頭どころか、
人間の頭を小学校校門へ置く分けのわからない、猟奇的な事件。
人を殺してみたかったなんでいう理由のない殺人事件は起こらないのではと、
ピクピク痙攣しながら息絶えていく羊を見ながら思いかたでした。
2007年12月25日
朝日をおがむ人あれど
12月の7日夜にカラチを発ち、11泊帰国しておりました。

12月20日昼にカラチに戻り、空港を出て写しましたカラチ国際空港です。
早いもので、今年も後1週間ですね。
年々、1年を短く感じます。
毎年、カレンダーが残り1枚になると、ちまたで耳にします。
「1年の過ぎるのは早いですね」 という決まり文句を。
10代の頃の、時間の経過を鈍行SLとしますと、
20代になって快速になり、
30代で急行、
40代で特急になり、
50代で新幹線に乗り換えたみたいな時間の経過でしたが
60代に入ると、ジェット機並のスピードで、時は過ぎていくのでしょうね。
70代になりますと、ロケットのスピードで目的地点へ着くのでしょうか。
なぜ、歳を重ねるとともに1年の経過を早く感じるのか。
1歳の誕生日を迎えた幼児の人生は過去1年しか生きていないので
1年/1歳。1年が人生の全てで100%になります。
2歳を迎えた幼児の人生は過去2年しか生きていないので
1年/2歳。1年が、人生の50%になります。
小学生の頃の時間の経過といったら、
なんであんなにゆっくりだったのでしょうね。早く大人になりたいと思ったものです。
小学4年生は10歳です。
小学4年生は、1年/10歳で、1年が、それまで経験した人生の10%。
小生は57歳ですので、1年/57歳で、1年が、それまで経験した人生の1.75%。
来年感じる1年の長さの体感時間は1.72%。
上記のような論法を、小耳にはさんだことがございます。
過ぎ去った過去の1年と現在を比較しますので年々、1年を短く感じるということは、
こういうことなのでしょうか。それだけ、年齢を重ねたということでしょう。
人に与えられた時間は皆、同じということですが、
セカセカ行くのか、それともゆったり行くのか、人それぞれですね。
まさに 「う世間な、うさっと かめん駆けぐらご」 ですね。
2007年はまもなく幕を閉じます。
「朝日をおがむ人あれど 夕日をおがむ人はない」 串木野さのさ、の一節です。
初日をおがむ前に、沈み行く夕日に心で手を合わせ
過ぎ去ろうとする1年に感謝しつつ、新年を迎えたいものです。
12月20日昼にカラチに戻り、空港を出て写しましたカラチ国際空港です。
早いもので、今年も後1週間ですね。
年々、1年を短く感じます。
毎年、カレンダーが残り1枚になると、ちまたで耳にします。
「1年の過ぎるのは早いですね」 という決まり文句を。
10代の頃の、時間の経過を鈍行SLとしますと、
20代になって快速になり、
30代で急行、
40代で特急になり、
50代で新幹線に乗り換えたみたいな時間の経過でしたが
60代に入ると、ジェット機並のスピードで、時は過ぎていくのでしょうね。
70代になりますと、ロケットのスピードで目的地点へ着くのでしょうか。
なぜ、歳を重ねるとともに1年の経過を早く感じるのか。
1歳の誕生日を迎えた幼児の人生は過去1年しか生きていないので
1年/1歳。1年が人生の全てで100%になります。
2歳を迎えた幼児の人生は過去2年しか生きていないので
1年/2歳。1年が、人生の50%になります。
小学生の頃の時間の経過といったら、
なんであんなにゆっくりだったのでしょうね。早く大人になりたいと思ったものです。
小学4年生は10歳です。
小学4年生は、1年/10歳で、1年が、それまで経験した人生の10%。
小生は57歳ですので、1年/57歳で、1年が、それまで経験した人生の1.75%。
来年感じる1年の長さの体感時間は1.72%。
上記のような論法を、小耳にはさんだことがございます。
過ぎ去った過去の1年と現在を比較しますので年々、1年を短く感じるということは、
こういうことなのでしょうか。それだけ、年齢を重ねたということでしょう。
人に与えられた時間は皆、同じということですが、
セカセカ行くのか、それともゆったり行くのか、人それぞれですね。
まさに 「う世間な、うさっと かめん駆けぐらご」 ですね。
2007年はまもなく幕を閉じます。
「朝日をおがむ人あれど 夕日をおがむ人はない」 串木野さのさ、の一節です。
初日をおがむ前に、沈み行く夕日に心で手を合わせ
過ぎ去ろうとする1年に感謝しつつ、新年を迎えたいものです。
2007年12月08日
2007年11月30日
金玉様
金玉様を、ご存じですか?ご存じですよね。
核、拉致、麻薬、偽ドル等で毎度、お騒がせ、白馬に跨る将軍様の現在の奥様で、
共産主義国家、「地上の楽園」、金王朝のファーストレディです。
金玉 (キム・オク) と発音するそうです。
パソコン入力は、キムオクでは変換されませんでしたので、
放送禁止用語の、○○○○と入力し漢字変換しました。
放送禁止用語があって、入力禁止用語というのはないんですね。
ちなみに、金正日閣下はキム・ジョンイルで入力し、漢字変換されました。
金玉様は、1964年生まれだそうで、
若い頃のお写真を拝見しますと、キュートで知的な女性です。金玉という名前は
男性秘所の名称ですが、以前は将軍様の女性秘書をされていたそうです。
将軍様の奥様は、金玉様で4人目だそうです。
まだ1人しか妻を娶ったことのない小生からしますと、4人目の妻ということは、
女運がいいといえばいいのか、女運が悪いといいえばいいのか、
「喜び組」 も控えておるそうでして、とにかくうらやましい話です。
金玉は分解しますと、金と玉です。
金はゴールド。玉(ぎょく) はジュエリー。女性が大好きな金と玉。
陳列ケースの中で誇らしく輝きを放っておりますが、この二つをくっつけますと、
とたんに日陰者扱いです。陳列どころではない、気の毒な存在です。
なぜ気の毒な存在か、まず人前で堂々と発音できません。
一生口から発しない、深窓のご令嬢や、高貴なお方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながら○○○○に罪はありません、なんの落ち度があるというのか。
もし罪があるとすれば常日頃、日陰者扱いをしている者たちにあります。
放送禁止用語として屈辱的な差別まで受けて、可愛そうな○○○○。
小声で遠慮がちに 「金太、負けるな」 つぶやいたとしましても、
耳にしまして、クスクス笑う不心得者さえおります。
痛いのですから、蹴られた日にゃあ。
かってブログタイトルとして、登場したことがあったでしょうか。チェストブロガーの
あいだでも、ブログタイトル禁止用語として、暗黙の了解事項だった○○○○。
「守ってますか?チェスト!タイトル7か条」 に抵触すると考えられています。
日本のブログ史上、はじめてでしょう。タイトルに登場したのは。
人類繁栄に欠くことのできない、大事な役割を考えますと、
これまでどおり、日陰者扱いをしていいのでしょうか。
皆、お世話になった過去を忘れていないでしょうか。日陰者どころか、
表舞台に出して陳列してあげたいヒーローではないかと1人憤慨をしております。
男子の○○○○(精巣)では,10才くらいから精子を作り始め,
1日約5千万~数億個ずつ,死ぬまで作られるそうです。
一生のうちに作る精子の数は,1兆~2兆個を超えるそうです。
また,女子の卵巣では,10才くらいから卵子を作り始め,
約1か月に1個ずつ卵子を輸卵管に出し始めるそうです。
排卵はふつう,50才くらいまで続くそうです。
つまり,受精のチャンスがある卵子の数は,約400個ということになります。
人は皆、父親が製造した1兆~2兆個の中の1個と
母親が製造した400個の中の1個との組み合わせから生じたと言う事になります。
1兆~2兆個×400個の、天文学的な数字の組合せから生じるわけですから、
人はそれぞれの、存在そのものが奇跡といっていいですね。
その奇跡的な存在である人と人が期せずして縁を持つこと自体、
奇跡と奇跡が偶然ぶつかり合ったみたいなものですから、
人との出会いは大切にしたいものです。
小生は来年の1月で58歳になります。
日本人男性の平均寿命は世界第2位で79歳だそうです。
平均寿命の79歳に加え、あと1年この世にしがみついたとしまして、
もし80歳まで命があるとしましたら残された時間は22年間になります。
「今年は暑いですね」 「今年は寒いですね」 と、22回言ったら人生は終わりです。
22年間は80年間で終わる人生ですと、残り27.5%です。
80年間の内、人生の春(0歳~20歳/80歳)、夏(20歳~40歳/80歳)と
秋(40歳~60歳/80歳)の殆どともいえる、
人生の72.5%はすでに終っております。
1日8時間は睡眠をとるとしましたら、22年間の内、7.3年間は目を閉じて
寝ていることになりますから起きて活動している時間は、14.7年間になります。
目を開けている期間は80年間の残り正味18.3%です。
この人生の残り18.3%を、もう18.3%しか残っていないと考えるか、
まだ、18.3%も残っていると考えるかで、
その後の人生が大きく変わってくると考えております。
小生はまだ、18.3%も残っているのかと考えたい。俗にいうプラス思考ですね。
人がその一生で、涙し笑う、感動の瞬間とはどれくらいの時間があるものでしょうか。
おそらく、人生の持ち時間の内、数パーセントもないのではないでしょうか。
いい出会いをたくさんした人。
涙し笑う、感動の瞬間が多かった人は、いい人生を歩いたと言えるのでしょうね。
団塊世代の小生としますと、人生の紅葉期、人生の収穫期を通り過ぎ、
今まさに人生の晩秋にさしかかり、人生の冬(60歳~80歳/80歳)に向かって
季節の変わり目を歩いているといえます。
ロンリーウィンターにならないように、ハッピーウィンターを過ごせるように、
冬支度をして、過ぎ去った過去の自分に感謝し、過去に出会った人々に感謝し、
今現在自分を支えてくれている人々に感謝し、残された人生での出会いに感謝し、
これからの自分にエールをおくり、残された人生を見つめ、
しっかり踏みしめて歩まなくては成らないと思っております。
今日は、○○○○について、・・・いや、
人生を、いかに生きるかという大きなテーマについて語ったような気がしております。
核、拉致、麻薬、偽ドル等で毎度、お騒がせ、白馬に跨る将軍様の現在の奥様で、
共産主義国家、「地上の楽園」、金王朝のファーストレディです。
金玉 (キム・オク) と発音するそうです。
パソコン入力は、キムオクでは変換されませんでしたので、
放送禁止用語の、○○○○と入力し漢字変換しました。
放送禁止用語があって、入力禁止用語というのはないんですね。
ちなみに、金正日閣下はキム・ジョンイルで入力し、漢字変換されました。
金玉様は、1964年生まれだそうで、
若い頃のお写真を拝見しますと、キュートで知的な女性です。金玉という名前は
男性秘所の名称ですが、以前は将軍様の女性秘書をされていたそうです。
将軍様の奥様は、金玉様で4人目だそうです。
まだ1人しか妻を娶ったことのない小生からしますと、4人目の妻ということは、
女運がいいといえばいいのか、女運が悪いといいえばいいのか、
「喜び組」 も控えておるそうでして、とにかくうらやましい話です。
金玉は分解しますと、金と玉です。
金はゴールド。玉(ぎょく) はジュエリー。女性が大好きな金と玉。
陳列ケースの中で誇らしく輝きを放っておりますが、この二つをくっつけますと、
とたんに日陰者扱いです。陳列どころではない、気の毒な存在です。
なぜ気の毒な存在か、まず人前で堂々と発音できません。
一生口から発しない、深窓のご令嬢や、高貴なお方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながら○○○○に罪はありません、なんの落ち度があるというのか。
もし罪があるとすれば常日頃、日陰者扱いをしている者たちにあります。
放送禁止用語として屈辱的な差別まで受けて、可愛そうな○○○○。
小声で遠慮がちに 「金太、負けるな」 つぶやいたとしましても、
耳にしまして、クスクス笑う不心得者さえおります。
痛いのですから、蹴られた日にゃあ。
かってブログタイトルとして、登場したことがあったでしょうか。チェストブロガーの
あいだでも、ブログタイトル禁止用語として、暗黙の了解事項だった○○○○。
「守ってますか?チェスト!タイトル7か条」 に抵触すると考えられています。
日本のブログ史上、はじめてでしょう。タイトルに登場したのは。
人類繁栄に欠くことのできない、大事な役割を考えますと、
これまでどおり、日陰者扱いをしていいのでしょうか。
皆、お世話になった過去を忘れていないでしょうか。日陰者どころか、
表舞台に出して陳列してあげたいヒーローではないかと1人憤慨をしております。
男子の○○○○(精巣)では,10才くらいから精子を作り始め,
1日約5千万~数億個ずつ,死ぬまで作られるそうです。
一生のうちに作る精子の数は,1兆~2兆個を超えるそうです。
また,女子の卵巣では,10才くらいから卵子を作り始め,
約1か月に1個ずつ卵子を輸卵管に出し始めるそうです。
排卵はふつう,50才くらいまで続くそうです。
つまり,受精のチャンスがある卵子の数は,約400個ということになります。
人は皆、父親が製造した1兆~2兆個の中の1個と
母親が製造した400個の中の1個との組み合わせから生じたと言う事になります。
1兆~2兆個×400個の、天文学的な数字の組合せから生じるわけですから、
人はそれぞれの、存在そのものが奇跡といっていいですね。
その奇跡的な存在である人と人が期せずして縁を持つこと自体、
奇跡と奇跡が偶然ぶつかり合ったみたいなものですから、
人との出会いは大切にしたいものです。
小生は来年の1月で58歳になります。
日本人男性の平均寿命は世界第2位で79歳だそうです。
平均寿命の79歳に加え、あと1年この世にしがみついたとしまして、
もし80歳まで命があるとしましたら残された時間は22年間になります。
「今年は暑いですね」 「今年は寒いですね」 と、22回言ったら人生は終わりです。
22年間は80年間で終わる人生ですと、残り27.5%です。
80年間の内、人生の春(0歳~20歳/80歳)、夏(20歳~40歳/80歳)と
秋(40歳~60歳/80歳)の殆どともいえる、
人生の72.5%はすでに終っております。
1日8時間は睡眠をとるとしましたら、22年間の内、7.3年間は目を閉じて
寝ていることになりますから起きて活動している時間は、14.7年間になります。
目を開けている期間は80年間の残り正味18.3%です。
この人生の残り18.3%を、もう18.3%しか残っていないと考えるか、
まだ、18.3%も残っていると考えるかで、
その後の人生が大きく変わってくると考えております。
小生はまだ、18.3%も残っているのかと考えたい。俗にいうプラス思考ですね。
人がその一生で、涙し笑う、感動の瞬間とはどれくらいの時間があるものでしょうか。
おそらく、人生の持ち時間の内、数パーセントもないのではないでしょうか。
いい出会いをたくさんした人。
涙し笑う、感動の瞬間が多かった人は、いい人生を歩いたと言えるのでしょうね。
団塊世代の小生としますと、人生の紅葉期、人生の収穫期を通り過ぎ、
今まさに人生の晩秋にさしかかり、人生の冬(60歳~80歳/80歳)に向かって
季節の変わり目を歩いているといえます。
ロンリーウィンターにならないように、ハッピーウィンターを過ごせるように、
冬支度をして、過ぎ去った過去の自分に感謝し、過去に出会った人々に感謝し、
今現在自分を支えてくれている人々に感謝し、残された人生での出会いに感謝し、
これからの自分にエールをおくり、残された人生を見つめ、
しっかり踏みしめて歩まなくては成らないと思っております。
今日は、○○○○について、・・・いや、
人生を、いかに生きるかという大きなテーマについて語ったような気がしております。
2007年11月26日
スイカ
一年中買えるわけでは
ありませんが、
カラチの果物屋さんでは
11月も終わろうというのに
スイカを売っております。
スイカ大好き人間ですので
これは、ありがたいです。
ご覧になっておわかりのように
ひょろ長いスイカです。
1個、160円でした。
トマトです。
ワイルドな外観です。
味もワイルドです。
オクラです。
日本の大きなオクラに
比べますと、
品種改良前の
野生種に近いのではないかと
思われます。
2007年11月22日
鶴亀算
小学6年生の3学期、算数の授業で習った鶴亀算は難しかった。
今では簡単に思える問題が、なぜか子供の頃は難しくて、なかなか解けなかった。
それまで算数といえば、足算、引算、掛算、割算だった、+、-、×、÷だったのに
足算、引算、掛算、割算、の次が鶴亀算だと思うとそれだけで難しく感じたものだ。
それでは例題です。
鶴と亀が合せて6 匹います。足の合計が22本でした。
鶴と亀はそれぞれ何匹いますか?
鶴の足が2本で亀の足が4本ですので子供の頭で、
鶴と亀をイメージすると頭が混乱し難しく考えてしまいます。
どうして解くのか。その方法は。6 匹全部が亀だと仮定して、
亀が前足を甲羅の中に引っ込めて後足で、
鶴みたいに足2本の立っているとイメージしてください。
そうすると、6匹×足2本=12ですね。
足の合計が22本ないといけませんので、10本足りませんね。
1匹目の亀さんに前足を出してもらうと足14本で、8本足りません。
2匹目の亀さんに前足を出してもらうと足16本で、6本足りません。
3匹目の亀さんに前足を出してもらうと足18本で、4本足りません。
4匹目の亀さんに前足を出してもらうと足20本で、2本足りません。
5匹目の亀さんに前足を出してもらうと足22本です。
6匹目の亀さんが前足を出すと足24本で多すぎます。
亀さん5匹で数字が合います。6匹目は足2本の鶴で正解です。
整理しますと、鶴(2本足)×1羽= 2本
亀(4本足)×5匹=20本
合計22本
正解は鶴1羽、亀5匹となります。
先週の日曜日にカラチ動物園に行きました。
最近の洗練された日本の動物園と違って昔の、
鴨池動物園を思い出すような雰囲気でした。
カラチ動物園にいる
鶴さんです。
鶴(2本足)×1羽=2本です。
鳥池で、白鳥や黒鳥等の
水鳥に混じって鶴が30羽程
放し飼いになlっていました。
出水の鶴を見たことが
あります。非常に警戒心の
強い鳥のイメージをもって
いましたが2~3Mの距離に
近づいてもそんなに
警戒するようすはありません。
余談ですが、昭和50年代のはじめ頃、天文館にありました、ブラックスワンという
お店を覚えている方いらっしゃいますかね。今風にいえばキャバクラですかね。
もういまはありませんが、昭和40年代の終わり頃は
「太郎」とか「ミカド」とかありましたね。
それに比べますと、「エンパイヤ」 は、昭和30年代からよく続きましたね。

カラチ動物園にいる陸亀さんです。亀(4本足)×5匹=20本です。
もしもし カメよ カメさんよ
世界のうちに おまえほど あゆみの のろい ものはない
どうしてそんなに のろいのか
今では簡単に思える問題が、なぜか子供の頃は難しくて、なかなか解けなかった。
それまで算数といえば、足算、引算、掛算、割算だった、+、-、×、÷だったのに
足算、引算、掛算、割算、の次が鶴亀算だと思うとそれだけで難しく感じたものだ。
それでは例題です。
鶴と亀が合せて6 匹います。足の合計が22本でした。
鶴と亀はそれぞれ何匹いますか?
鶴の足が2本で亀の足が4本ですので子供の頭で、
鶴と亀をイメージすると頭が混乱し難しく考えてしまいます。
どうして解くのか。その方法は。6 匹全部が亀だと仮定して、
亀が前足を甲羅の中に引っ込めて後足で、
鶴みたいに足2本の立っているとイメージしてください。
そうすると、6匹×足2本=12ですね。
足の合計が22本ないといけませんので、10本足りませんね。
1匹目の亀さんに前足を出してもらうと足14本で、8本足りません。
2匹目の亀さんに前足を出してもらうと足16本で、6本足りません。
3匹目の亀さんに前足を出してもらうと足18本で、4本足りません。
4匹目の亀さんに前足を出してもらうと足20本で、2本足りません。
5匹目の亀さんに前足を出してもらうと足22本です。
6匹目の亀さんが前足を出すと足24本で多すぎます。
亀さん5匹で数字が合います。6匹目は足2本の鶴で正解です。
整理しますと、鶴(2本足)×1羽= 2本
亀(4本足)×5匹=20本
合計22本
正解は鶴1羽、亀5匹となります。
先週の日曜日にカラチ動物園に行きました。
最近の洗練された日本の動物園と違って昔の、
鴨池動物園を思い出すような雰囲気でした。
鶴さんです。
鶴(2本足)×1羽=2本です。
鳥池で、白鳥や黒鳥等の
水鳥に混じって鶴が30羽程
放し飼いになlっていました。
出水の鶴を見たことが
あります。非常に警戒心の
強い鳥のイメージをもって
いましたが2~3Mの距離に
近づいてもそんなに
警戒するようすはありません。
余談ですが、昭和50年代のはじめ頃、天文館にありました、ブラックスワンという
お店を覚えている方いらっしゃいますかね。今風にいえばキャバクラですかね。
もういまはありませんが、昭和40年代の終わり頃は
「太郎」とか「ミカド」とかありましたね。
それに比べますと、「エンパイヤ」 は、昭和30年代からよく続きましたね。
カラチ動物園にいる陸亀さんです。亀(4本足)×5匹=20本です。
もしもし カメよ カメさんよ
世界のうちに おまえほど あゆみの のろい ものはない
どうしてそんなに のろいのか
2007年11月18日
エンプレス・マーケット
1899年に建設された英植民地時代のヴィクトリア朝建築物です。
新鮮な品が豊富にあり、雑然とした中に市民の生活を垣間見ることが出来ます。
日用雑貨洋品から、
香辛料、鮮魚、肉、野菜が揃っており、ここはさしずめカラチの台所でしょう。
飛び回っている蠅の数が半端ではありません。
口を開けて歩くと、中に入ってきそうです。
鼻の穴も栓をして、ふさいで歩きたいくらいです。



2007年11月14日
オートリキシャ
単気筒150ccでイタリア製です。
半世紀程前のデザインで、かなり歴史を感じます。
2サイクルで少排気量の割にかなり排気ガスをまき散らして走ります。
カラチの町が排気ガスくさいのはオートリキシャの台数が多いからでしょう。
客定員は後ろ座席に大人2名です。痩せた人ですと3名でも座れます。
山羊と人が相乗りしていることもあります。
オートリキシャドライバーです。 4サイクルのニューオートリキシャです。
ニューモデルは滅多に走っていませんので運転中でしたが、渋滞で止まったとき
デジカメにおさめました。
2007年11月10日
・・トホホ
突然ですが、エンドウ豆をお尻にはさんだことがございますか。
黄門様のすぐ横に、エンドウ豆をはさんで歩いたことが。
黄門様のお供は、助さん、格さん、はちべぇですよね。
豆さんとか、豆べぇとか知りませんよね。
今日は黄門様のすぐ横に、つき従った豆さんのお話です。
小生は、還暦が近い歳のせいか、
以前より出が悪くなりまして、いきむ時間が長くなりました。
夏なんか、あの狭い密室で
歯を食いしばり汗びっしょりになって格闘することになるわけです。
久しぶりにお目にかかる○○○さんは、
出始め部分はメェ~、メェ~ちゃんの○○○さんみたいにコロコロして硬いのです。
数を数えたわけではありませんが、正確に表現しましと、コロコロではなく、
コロコロコロコロ、コロコロコロコロ、コロコロコロコロ、なのです。
三本の矢も協力しましと、力を発揮します。
コロコロも、これが団結しますとかなりしぶといです。
硬いコロコロが出口に栓というか、蓋をした状態ではなかろうかと考えられます。
黄門様にコロコロで栓がしてありますので、それ以降の
善良な○○○さんまで巻き添えを食って停滞を余儀なくされているようなのです。
若い頃は、5分以上も個室にいるなんてことはなかったのですが、10分以上も
個室でいきんで、水戸の、ご老公様に無理な負担をおかけしていたのでしょうね。
コロコロが引きこもり状態なので、ご老公様のご機嫌がうるわしくないのは、
分かっていたのですが、ランチで韓国飯屋へ行ったのが間違いでした。
辛いチャンポンというのを頼んだのが決定的でした。
スープを飲んだのが、だめ押しでした。
具は日本のチャンポンと
変わりはありませんでしたが、スープが真っ赤っかでした。
しかしその真っ赤っかなスープが美味しかった。
ご相談なしに、たっぷり飲んでしまい、黄門様のご機嫌をそこねてしまいました。
夜、家に帰った頃から、お尻が何か変でした。
何か飛び出しているような。何かくっついているような。
ん・・。・・トホホでした。
お尻にエンドウ豆をはさんでいるような感じなのです・・トホホ。
黄門様のすぐ横にエンドウ豆が・・トホホ。
不愉快きわまりない状態でした。
このストレスは経験したものでないとわかりません。
お尻にエンドウ豆をはさんでいなかった頃の
自分がいかに幸せだったかを思い知りました。
痛みで、歩く姿もぎこちなくなり、椅子にかけるのもドカッとは座れず
手を机について体重を支えてからでないと座れませんでした。
黄門様をすぼめてみたり、軟膏をぬったり、
お灸 (腕のツボ) をしたり症状を抑えるのに必死な思いをしました。
平日は、朝起きたときと就寝前、休日は4時間おきに、大きめの洗面器にお湯をいれ
10分から15分間、尻湯(座浴)をして黄門様周辺部をマッサージしました。
その効果があったのか水戸のご老公様に付き従っておりました、
エンドウ豆は、大豆になり、小豆になり
最終的には消滅し10日間で痛みはとれ症状は治まりました。
忘れたくても、忘れられない、今年の夏のトホホな出来事でした。
尻湯の効果は絶大で、エンドウ豆消滅だけではありませんで、
引きこもり状態の、コロコロさんにも効果があるようです。コロコロさんも
それまでのかたくなな態度を改め、軟化傾向にあり最近はいい子です。
エンドウ豆さんとお別れをしたあとも、尻湯は続けております。
エンドウ豆をお尻にはさんだことがある、トホホ経験者の方。
今現在、トホホ状態の方。黄門様に自信のない、トホホ予備軍の方。
全国のトホホ同志の諸君よ!
尻湯でトホホ人生解消を。 「♪人生楽ありゃ、苦もあるさ~・・トホホ」
黄門様のすぐ横に、エンドウ豆をはさんで歩いたことが。
黄門様のお供は、助さん、格さん、はちべぇですよね。
豆さんとか、豆べぇとか知りませんよね。
今日は黄門様のすぐ横に、つき従った豆さんのお話です。
小生は、還暦が近い歳のせいか、
以前より出が悪くなりまして、いきむ時間が長くなりました。
夏なんか、あの狭い密室で
歯を食いしばり汗びっしょりになって格闘することになるわけです。
久しぶりにお目にかかる○○○さんは、
出始め部分はメェ~、メェ~ちゃんの○○○さんみたいにコロコロして硬いのです。
数を数えたわけではありませんが、正確に表現しましと、コロコロではなく、
コロコロコロコロ、コロコロコロコロ、コロコロコロコロ、なのです。
三本の矢も協力しましと、力を発揮します。
コロコロも、これが団結しますとかなりしぶといです。
硬いコロコロが出口に栓というか、蓋をした状態ではなかろうかと考えられます。
黄門様にコロコロで栓がしてありますので、それ以降の
善良な○○○さんまで巻き添えを食って停滞を余儀なくされているようなのです。
若い頃は、5分以上も個室にいるなんてことはなかったのですが、10分以上も
個室でいきんで、水戸の、ご老公様に無理な負担をおかけしていたのでしょうね。
コロコロが引きこもり状態なので、ご老公様のご機嫌がうるわしくないのは、
分かっていたのですが、ランチで韓国飯屋へ行ったのが間違いでした。
スープを飲んだのが、だめ押しでした。
具は日本のチャンポンと
変わりはありませんでしたが、スープが真っ赤っかでした。
しかしその真っ赤っかなスープが美味しかった。
ご相談なしに、たっぷり飲んでしまい、黄門様のご機嫌をそこねてしまいました。
夜、家に帰った頃から、お尻が何か変でした。
何か飛び出しているような。何かくっついているような。
ん・・。・・トホホでした。
お尻にエンドウ豆をはさんでいるような感じなのです・・トホホ。
黄門様のすぐ横にエンドウ豆が・・トホホ。
不愉快きわまりない状態でした。
このストレスは経験したものでないとわかりません。
お尻にエンドウ豆をはさんでいなかった頃の
自分がいかに幸せだったかを思い知りました。
痛みで、歩く姿もぎこちなくなり、椅子にかけるのもドカッとは座れず
手を机について体重を支えてからでないと座れませんでした。
黄門様をすぼめてみたり、軟膏をぬったり、
お灸 (腕のツボ) をしたり症状を抑えるのに必死な思いをしました。
平日は、朝起きたときと就寝前、休日は4時間おきに、大きめの洗面器にお湯をいれ
10分から15分間、尻湯(座浴)をして黄門様周辺部をマッサージしました。
その効果があったのか水戸のご老公様に付き従っておりました、
エンドウ豆は、大豆になり、小豆になり
最終的には消滅し10日間で痛みはとれ症状は治まりました。
忘れたくても、忘れられない、今年の夏のトホホな出来事でした。
尻湯の効果は絶大で、エンドウ豆消滅だけではありませんで、
引きこもり状態の、コロコロさんにも効果があるようです。コロコロさんも
それまでのかたくなな態度を改め、軟化傾向にあり最近はいい子です。
エンドウ豆さんとお別れをしたあとも、尻湯は続けております。
エンドウ豆をお尻にはさんだことがある、トホホ経験者の方。
今現在、トホホ状態の方。黄門様に自信のない、トホホ予備軍の方。
全国のトホホ同志の諸君よ!
尻湯でトホホ人生解消を。 「♪人生楽ありゃ、苦もあるさ~・・トホホ」
2007年11月06日
イムリ
種周りに、こびり付いているこげ茶色の果肉を利用します。
果肉は酸味があり、酸っぱいスープや調味料として使われたり、
ケチャップみたいな使い方もします。
清涼飲料、にも使われ、医薬用、としての用途もあるそうです。
ストアーには、ジャムみたいになって瓶詰めで売っています。
イムリの木は熱帯産のタマリンド属、マメ科の高さ20~25mに達する
常緑の木です。かなり大きな木になり、トンビが営巣したりします。
木の下の土の上には、イムリの実が落ちています。
木の幹は、タマリンド材になります。
2007年11月02日
おはら祭り
亡き親父が1999年11月、91歳のときに作った句です。
絵は、MBC 「さつま狂句」 でおなじみの若松 泰義さんです。
若松さんの挿絵が、句の味を引き立てているのか、
句が、絵を引き立てているのか分らないくらいに
句と絵がマッチしていますね。
小生は1968年11月の、おはら祭りに、職場の踊り連の一員としまして、
終点の照国神社まで踊ったことがございます。
秋晴れの暑い日でした。18歳の秋のことでした。
2007年10月29日
トイレ
美味しそうですか?
それとも、水差しの
水で、
お茶かコーヒーを
入れて飲んだら
美味しそうですか?
実はこの水差しの
用途は、中の水で
お尻を洗うために
置いてあります。
パキスタンの一般的なトイレです。かなり、綺麗な方です。水洗です。
さて、貴方はどちら側を向いてしゃがみ込むでしょうか?
金隠しがないので,前後の判断に迷ってしまいます。
日本式に考えると、排水口 (穴) のある方に金隠しが付いていますので、
左側が頭で、右側にお尻を向けたくなります。
しかしながら、断水が日常茶飯事のカラチでは、水流が弱くて、
ブツが微動だにしなかったり、ひどいときはタンクの洗浄水が空っぽで
一滴の水も流れないことがあります。
つい先ほどまで、
お腹の中にあった自分の所有物が、赤の他人の目にさらし物になるのは
なんとなく、嫌なものです。
赤の他人のブツを見せられる方は、もっと嫌でしょうが。
カラチのコリアン飯屋に行ったときのことです。
ボリュームのある石焼ビビンバを食べましたら大を、もよおしてきまして、
スッキリした後に、フラッシュレバーを動かしたら水が流れてこず、
仕方がないので、何食わぬ顔でお土産を残したまま、店を出たことがあります。
と言うことで、外国で金隠しがない便器にしゃがむ場合は、
穴のあいている方にお尻を向け、ブツを直接落とし込んだ方がいいでしょう。
トイレは個室なので、別にキンを隠す必要はないのですが、
最初に金隠しがない便器にしゃがみ込んだときは、
落ち着きませんでした。
ペーパーホルダーはありません。というこは、トイレに紙がないということです。
右手で水差しを持ち、左手で水を受け、
お尻に付着したブツを洗い流しキレイ、キレイします。
水洗い後、濡れたお尻の水気を拭くことはしないようです。
濡れたお尻のまま、着衣を付け、自然乾燥を待ちます。
日本のジトッとした、湿気の多い気候で生活しておりますと
下着がまとわり付いて、気持ちが悪いだろうと、お考えでしょうが、カラチは
滅多に雨が降りませんので、海岸は近くにありますが、空気が乾燥しており、
思ったより気になりません。
主寝室トイレです。 ゲストルームトイレです。 小生の寝室トイレです。
小生が借りている住まいは、スリーベッドルームありますので、
トイレ、バス、洗面台も3箇所ありますが、1人住まいをしております。
進化しまして、
お尻洗い用シャワーが付いております。
高置水槽が満タンのときは、かなり
水流は強いです。
車間距離ではなく
シャワ間距離が
近すぎると、中に
入ってきそうです。
御紋を直接狙っても、中に入ってきそうですので、的は微妙に外して使います。
これを使い慣れますと、日本のウォシュレットはおもちゃの水鉄砲を
的に当てるみたいで、なんとも物足りません。
お尻洗いに関しましては、小生は知らず知らずにパキスタン化しつつあります。
2007年10月25日
無花果
乾燥イチジクがスライスして、数珠繋ぎになっております。
写真写りがいいように、自宅の台所入り口にぶら下げてみました。
カラチのドライフルーツ屋さんには、
色んな種類の乾燥フルーツを売っておりますが、
イチジクは、便秘によく効くらしいです。
イチジクは上からでも、下からでも便秘に効くんですね。
一枚取り外してみました。
見ておりますとなんとなく、便秘に効きそうな気がしてきました。
毎日食べております。
2007年10月20日
チョキダール
自宅の前庭です。
左下のテラス上にあるのは、絨毯です。絨毯がひっくり返しておいてあります。
チョキダールがこの絨毯を使用します。
畳より一回り、小さいサイズに切断してあります。
テラス上に置いてある、絨毯の用途は、おわかりでしょうか。
イスラム教の信者は、一日に5回メッカに向かってお祈りをします。
そのとき、地面に額をつけひれ伏しますので、この絨毯の上でお祈りをします。
お祈りの主です。門番兼警備員のことを、現地語でチョキダールと言います。
パキスタンは、治安が不安定ですので、自宅に警備員がいます。
肩には、ショットガンをかけ、拳銃も所持しております。
24時間交代制で自宅警備をしてくれています。
強盗事件が日常的に発生しているそうで、高級住宅街の住民や、
日本人の現地駐在員は警備員を雇っているのが一般的です。
カラチでは数年前、イスラム過激派テロ組織が起こしたと見られる
爆弾爆破事件や、反政府テロ活動が相次いで発生し、
市内の治安情勢が著しく低下したそうです。
カラチにアルカイダ潜入のうわさは以前からあり、
大きな事件がないことを願っていましたが、
亡命先から帰国したブット元首相を狙った自爆テロが、
昨日19日の0時半頃ありました。
空港近くで130名以上が亡くなり600名近くの人が負傷しました。
平和な日本に住んでおりますと、自爆テロ等どこ吹く風でしょうが、
日本丸の舟頭さんが舵取りを誤まることなく、
血肉が焼け焦げる臭いを嗅がずにすむ、
平和な日本であり続けることを、ここカラチから祈るばかりです。
2007年10月14日
裏窓
この広場で草野球ではなく、草クリケットが始まります。
昼寝時のトロトロしております耳に聞こえてきます、子供達の遊ぶ歓声は、
昔遊んだ、カン蹴りや、三角ベースに、竹バットと、ギッタマイの草野球で
西駅(鹿児島中央駅)東口や西駅西口の広場をグランドにして、夢中に遊んだ
幼い頃に引き戻してくれます。
上の写真4枚は、裏窓から見える広場で遊ぶ子供たちです。
子供達の遊び声の響きは万国共通で平和の響きを感じます。
しかしながらパキスタン北西部の山岳地やアフガン南東部山岳地では、子供達が、
銃を片手にスローガンを叫んでいる姿をTVで目にします。
ジハード、聖戦だそうです。
聖戦で死んだ場合は死後に、いい世界が保証されるそうです。
正確で公正・中立な情報が届かない、偏った教育の恐ろしさが、そこに在ります。
クリケットのバットではなく、銃を手にもたされた無垢な
子供達が可愛そうでならないですね。
日本でも、ついこの前の太平洋戦争末期に、神国日本の20歳前後の優秀で
純粋な若者達が父母の元を離れ、知覧の飛行場から、片道燃料に爆弾を積んで
プロペラ機で死へのフライトをしました。
水杯を交わし、1人また、ひとり、靖国で会おうと言いながら。
当時の若き特攻隊員の心境は、
知覧の平和会館にある展示物で、知ることができます。辞世の句や、
死を目前にし、母親へ宛てた手紙等、涙なくして読むことはできません。
大本営発表でしか、ニュースとして記事にならなかった、情報統制の怖さ。
操作された情報でコントロールされた、皇国の皇民達は、竹やり軍事訓練と、
隣組のバケツリレー防火訓練で、米軍の本土上陸に備えました
米軍の本土上陸を待つまでもなく、B29の落とす、焼夷弾で焼き尽くされた
焦土に転がる炭化した死体の山。1000度以上の熱で、生きながら焼かれた
広島、長崎の一般市民の人々に何の落ち度があったと言うのでしょうか。
無謀な戦争を仕掛け、敗戦濃厚になって、その後始末もできなかった軍首脳部。
遅すぎた終戦の判断により、どれだけの貴重な命が失われたか。
遅すぎた終戦により、結果は屈辱の無条件降伏。
勇ましいことを言う一部の軍人達は、8月15日の降伏を認めず、
本土決戦を主張したそうです。仮に、8月15日に敗戦を受け入れていなければ、
広島、長崎に続く
第3、第4、第5の都市が被害を受けていた可能性さえ否定できません。
終戦後も満州の引き揚げ者の苦労。捕虜に対するソ連の理不尽なシベリア抑留。
不可侵条約を破棄した、
ソ連参戦により生じた、中国残留孤児の親と離れた悲しさ。
日本軍が武装解除された、8月15日の終戦後、丸腰状態の我が国へ、
火事場泥棒的に、入り込んできたソ連に不法占拠された日本固有の
北方領土から追い出され、先祖の墓参りさえままならない旧住民達。
ソ連は北海道の
北半分まで進駐し占領する計画を持っていたが、アメリカの牽制で諦めたとか。
敗戦前の日本の首脳部は、アメリカとの終戦交渉の窓口をソ連に
依頼する打診をしたとか。
お粗末外交で敗戦の傷口を広げた、当時の日本首脳陣。
大東亜戦前の半分も領土を失い、戦地で幾十万人の父や、息子を失って、
本土の一般市民の人々まで焼き殺された悲劇を、
日本人はもう忘れてしまったのでしょうか。
先の大戦で何を学んだのでしょうか。
最近のニュースを見ておりますと、勇ましいことを言う一部の人達に政治が
コントロールされており、「この道は、いつか来た道」 との危惧を感じます。
非武装中立等、立派なお題目ではありますが、所詮夢物語で、国力に見合った
ハリネズミ論的な自国防衛の軍備は当然、必要なことです。
長い目で、今後の軍事バランスを考えてみますに、現在でも
NPT(核拡散防止条約)で取り決めた、現核保有国の米、露、英、仏、中の
5ヶ国の、核独占状況がくずれており、他の国へ核兵器が広がり、通常兵器は
戦争抑止力としての武器としては用をなさなくなる時期がくることも考えられます。
自国防衛を真剣に考えるならば、他の核武装国同様に、戦争抑止力としての
核兵器を保有しろとまでは言いませんが、
選択肢としては残しておくべきかもしれません。
要人達の地下シェルターは完備されていても、一般国民は核に無防備です。
イスラエルみたいに一定規模以上の大型建築物にはシェルター設置を義務付け、
国民を守る手立ては考えなくていいのでしょうか。
年間約5兆円の、軍事費の、ほんの少しを、シェルター建設にまわせば、
国民は安心し、核を打ち込もうとする国は、攻撃効果が見込めなければ、
ボタンを押す抑止力になり、シェルターが備わっておれば、戦争時だけではなく
災害時等、非常の際とか多目的に使え、建設業界も潤い、経済効果は、
計り知れないものがあります。
かごっまの場合は、
秋鯖が釣れる、錦江湾に浮かぶ桜島が大正3年のときみたいな、大噴火をしても、
非難できるスペースがあれば、「備えあれば、憂いなし」 で安心です。
原爆2発を落とされた特殊な国の国民感情。憲法9条に書かれた不戦の誓い。
平和国家に徹するという説明努力は続けるしかなく、一国平和主義等と、
自国を自ら卑下することなどなく、むしろ、戦後歩んできた一国平和主義を
貫くことで、他国の模範になれるポジションにあるのが、原爆2発を落とされた、
我が国ではないだろうか、との見かたはできないでしょうか。
海外を歩いていまして、小生が日本人だと分かると
現地の人が、が知っている限りの日本語を並べることがあります。
「トヨタ」 「ホンダ」 「ソニー」 「ヒロシマ」 「ナガサキ」 日本が原爆2発を落とされた、
被爆国であるということは、どこの国に行きましても、誰でも知っております。
一国平和主義を貫くのか或いは、自衛隊が海外で他国の軍艦や戦闘機に
燃料補給をしたり、武器を持って他国に行くのを認めるか、
大きく意見が分かれるところですが、
最近の世論は勇ましいことを言う人の意見に傾きつつあります。
こういう重要な問題は、一部の議員、一部の官僚に任すのではなく、
国民投票か、選挙の争点として、国民の意思で方向を決めた方が、いいのでは。
一国平和主義か、海外で活動するかは、結果として、
全て国民の命に跳ね返ってくるのですから。
夫、息子を戦場に送り出し、名誉の戦死をして、勲章を頂いて、
それでも仕方がないと納得できるには、人任せではなく自分たちの一票を行使し
多数決で直接決めたことでないと。
日本国内がテロ攻撃を受けて、大勢の死人が出てから、
川内の原発施設がテロ攻撃にあってから。或いは戦争への歯車が動きだしてから
「どげんかせんといかん」 と慌ててみても、
もう時すでに遅く 「どげんもならん」 のですから。
一国平和主義を貫くか、「テロとの戦い」 という大義名分のもと、武器を携行した
自衛隊の海外活動を認めるか、国民が判断できるだけの情報は、
全部開示されてはおりません。
現在でも、大本営発表は生き残っていると言うことです。
安部前首相のとき、アッという間に防衛庁から防衛省になりましたが、
防衛省内部の重要な情報は、国益を守る、保秘義務がある軍事機密、と言うことで、
戦前の大日本帝国軍隊と同じく、
殆どの書類に朱色の丸秘印が押してあり、国民には伝わってきません。
省益に反しない、防衛省にとって都合のいい一部の情報しか、
自分達ではリークしないとい言うことです。
そもそも、大義名分の 「テロとの戦い」 とはなにか。
日本は、オウム真理教の地下鉄サリン事件は、ありましたが、外国のテロ組織から
以前警告を受けただけで、実際には爆弾死傷事件は起こっておりません。
「テロとの戦い」 は突き詰めていきますと、9.11同時多発テロの復讐行動では
ないでしょうか。あの事件は酷いものでしたが、アメリカがイスラム圏の世界に
武力で深入りし、干渉しすぎた結果起きた事件である面も否めません。
アメリカ的な民主主義を、イスラム世界に強引に押付けても、独特な社会・文化を
よく理解しないとしっぺ返しを食わされるということでしょう。
小生は、特定の政党や団体に所属するものではなく、いわゆる無党派層ですが、
最近、日本の政治家の発言が、以前と変わってきて
きなくさいものを感じますもので、いささか心配をしております。
米国の核の傘に守られて、自国の安全を他国に依存し、自分で
自国を守れない国に成り下がったコバンザメジャパンの立場は分かるものの、
日本丸の舟頭さんが、舟頭さんたちの寄り合いで、
勇ましい話が出来ず惨めな思いをしても、いいじゃないですか。
カッコウをつけて、見栄を張らなくても、いいじゃないですか。
付き合いがわるいぞ、と嫌みを言われても、いいじゃないですか。
60年以上も前、日本丸の舟頭さんは
舵取りを誤まり舟を転覆させ、大勢の犠牲者を出しました。
過去の教訓を生かし、一国追従ではなく、バランスのとれた外交の、舵取りで
舟旅の安全第一を、お願いしたいものです。
2007年10月09日
マンゴー②
以前、カラチのマンゴーにつきまして記したことがございます。
マンゴーシリーズ、第2弾です。

先々月頃から、果物屋さんの店頭に小さなマンゴーが並ぶようになりました。
一個20円です。

普通のマンゴーです。緑色ですが、4,5日後には黄色になり、食べ頃になります。
大きさを比べてください。種類が違うのでしょうね。
普通のマンゴーの一個の値段が20円から30円ですから、
小さなマンゴーはかなり割高です。
しかし、味もそれだけの価値がある、上品で納得できる、
こくがあるのにきれがあり、しまりのある味です。
デカいマンゴーも、それなりに十分美味しいのですが、
小さなマンゴーと比べますと、ゆるい大味なマンゴーと言えます。
最近はデカい大味なマンゴーではなく、この小さくてプチなかわいいマンゴー。
略して、プチマンを食べております。
プチマン、我ながら響きのいいネーミングだと、自負しております。
大味でデカいマンゴー。
略して、・・・ ○○○○ 。うわ~っ。
「わ、わっぜか響きたい。だけん、こっちゃは、略さんほうが、よかろごたっ」
(上フレーズは、熊本弁風でお願いします)
マンゴーシリーズ、第2弾です。
先々月頃から、果物屋さんの店頭に小さなマンゴーが並ぶようになりました。
一個20円です。
普通のマンゴーです。緑色ですが、4,5日後には黄色になり、食べ頃になります。
大きさを比べてください。種類が違うのでしょうね。
普通のマンゴーの一個の値段が20円から30円ですから、
小さなマンゴーはかなり割高です。
しかし、味もそれだけの価値がある、上品で納得できる、
こくがあるのにきれがあり、しまりのある味です。
デカいマンゴーも、それなりに十分美味しいのですが、
小さなマンゴーと比べますと、ゆるい大味なマンゴーと言えます。
最近はデカい大味なマンゴーではなく、この小さくてプチなかわいいマンゴー。
略して、プチマンを食べております。
プチマン、我ながら響きのいいネーミングだと、自負しております。
大味でデカいマンゴー。
略して、・・・ ○○○○ 。うわ~っ。
「わ、わっぜか響きたい。だけん、こっちゃは、略さんほうが、よかろごたっ」
(上フレーズは、熊本弁風でお願いします)
2007年10月04日
カスタードアップル
大きさは子供の拳大から
大人の拳大まであります。
先日まで、
名前も知りませんでした。
グロテスクな外観です。
先日初めて果物屋で見かけ、ギョッとしました。
外観から発する、
異様な雰囲気に。
近寄ったら何をされるか、わからんぞ。
目を合わさないように、気を付けました。
いきなり、殴りかかってくるかもしれないし。
こいつとは、仲良くなれないだろうなと思いました。
絶対に腹黒い奴だと。だまされないように、気をつけようと。
もし、なれなれしく話しかけてきても、
無視して仲間に入れてやらないぞと思っていました。
外見で、相手を判断したため、冷たくあしらって、仲間はずれにしていたら
こいつに嫌な思いをさせ、悲しませ、自分も後悔するところでした。
以外でした。誤解をしておりました。
人は見かけによらない場合が、ありますよね。
初対面の、第一印象で相手を判断してはいけません。
第一印象が砂糖みたいに甘くて、
ニコニコした見かけの良い奴が、実際はペテン師で、後で砂をかむような
思いをさせられたり、
無愛想で、取っ付きの悪い奴が、意外と良い奴だったりする例は多いものです。
この果物もそんな奴です。
腹黒い奴ではありませんでした。腹白い、いい奴でした。
果肉は白いクリーム状です。味は非常に甘味が強いです。
ハッキリ言って見かけは非常に悪いですが、中身は驚くほど、スイートです。
しつこい甘さではなく、心地よい甘さです。
種が多いです。種の多さは、たとえて言えば、
うんべ (アケビ科 : むべ) みたいな感じです。
うんべは種まわりの甘い部分は少なく、食べるところがあまりありませんが、
カスタードアップルは、うんべより食べる部分は多いです。
果実一個分の種です。
ご希望の方が
いらっしゃいましたら、
差し上げます。
原産地は南米ということです。
表面は緑色で凹凸があり、これが仏像の頭部に見えることから
釈迦頭の和名が付いております。
英名Sugar-appleだそうで、ここカラチでは、ウルドゥー語でシャリファと言います。
アボガドは森のバターと言われますが、
カスタードアップルは、森のアイスクリームと言われるそうです。
2007年09月29日
チークー
見た目はジャガイモですが果物です。
触感は、色違いのキウイフルーツのようでもあります。
参考に左端にジャガイモを1個、置いてみました。
大きさは、時計と比べて見当をつけてください。
食べてみました。歯ごたえはありません。
味は表現しにくいです。酸味はありませんで、甘みがあります。
この年になるまで経験したことがない味です。
干し柿の味に似ているという人もおります。
種は、柿の種に
似ております。
長さは
2.5cm位です。
果実一個に
一つか
二つの
種が入っております。
少ししかありませんが、ご希望がございましたら、チークーの種を
差し上げます。ご連絡ください。来年3月は帰国いたしております。
お隣さんの庭の、チークーの木です。
右側上部に、実が沢山なっています。
風が強く吹く日は、チークーの実が揺れ踊ります。
これが、ホントのチークーダンス、なんちゃって。
中央部の黒い部分はカラスの巣です。
地面から約6Mの位置にカラスの巣があります。
自宅の屋上に、来たカラスです。こちらのカラスは、首周りがネズミ色をしています。
平川動物園のご担当の方、このカラスはどうですか。
パンダカラスの、ネーミングで、客寄せになりませんでしょうか。
2007年09月24日
秋鯖
カッターナイフで鯖を3枚におろし、刺身にしているところです。
脂がのって、美味いの何の。
鯵、イトヨリ、鯛、ふぐ等約50匹が釣れました。
去年9月2日から28日まで
一時帰国いたしておりまして、
鹿児島市には23日から2泊しました。
舟上から見る桜島です。
桜島が目の前にある風景は、鹿児島市に住んでいますと、
当たり前のことになっており、気がつきませんが、海外の各都市をウロウロしまして、
感じますことは、活火山の僅か数キロしか、離れていない場所に、
60万人を超える人々が住んでいるような、眺めは目にしたことはなく、
鹿児島市は世界の都市中でも、非常に特殊な景観の、
驚きの都市であるということです。
たとえて言いますと、60万人が暮らしている数キロ先に、とてつもないエネルギーを
秘めた爆発物があり、時間を長いスパンで考えますと、いつ時限発火装置が作動し
破裂するかも分からない状態で存在しているということです。

桜島が
本格的に噴火したときの
怖さ、危険性は
死者58名を出し、
鹿児島市内の人々が
避難を余儀なくされた、
大正3年の
大噴火が
証明しております。
噴煙は
7000Mから
8000M
上空まで
達したとの
記録もあり、
いかに
強力な
エネルギーかが分ります。
鹿児島は霧島、指宿等、観光資源に恵まれていますが、活火山桜島に近接する
60万都市の位置関係、ひとつを取ってみましても、
この特殊性の売り込み方次第で、今以上に観光客を呼び込める可能性があります。
近年、韓国、台湾等、東南アジアから日本への観光客が増えております。
中国も豊かに成りつつあり、余裕ができた層が、日本観光を楽しんでおります。
今後、鹿児島市を訪れる観光客は、アジア地域からの人々が主流になるでしょうし、
そこに目を向けないと観光産業は衰退の道を辿ることになります。
鹿児島を、「どげんかせんといかん」
かごっまん観光振興策を、「どげんかせんといかん」
降灰が酷い時期には、厄介者扱いされる桜島ですが、
降灰対策も、「どげんかせんといかん」
昔から、かごっま人と共にあった桜島。
この大きな観光素材を
未来に向かっての活用法も、いまのままじゃいかん、「どげんかせんといかん」
桜島を題材に、いい絵や詩、曲、句等が、たくさん生まれておりますね。
「わが胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」 平野国臣
国を憂い、国を変え、国を創る、「どげんかせんといかん」 と言う、
維新の志士の心意気が、時空を超えて伝わってきますね。
平野国臣さんには、申し訳ないですが、小生の場合、
ショボい話で、退職後の生活費を、「どげんかせんといかん」
2007年09月16日
トンビ
山の中ではなく、この木の下は、交通量の激しい20M道路です。
巣の位置は地面から約10Mしかありません。
この木は現地語でイムリと呼ばれ
熱帯産のタマリンド属、マメ科の高さ20~25mに達する常緑の木です。
木の下の土の上には、イムリの実が落ちています。
営巣し、卵を抱いております。窓から手を伸ばせば巣に、手が届きそうです。
こういうのは、日本では見たことがありません。カラチのトンビは、たくましいです。
日本の住宅街で、よく見かける鳥は、スズメ、ハト、カラスですよね。
カラチでは、スズメ、ハト、カラスにトンビが加わります。
平屋や2階建て住宅の屋根に、トンビの集団が止まっていたりします。
空に、黒点が10個ほど写っておりますが、全部トンビです。
実際にはファインダーの中で、3桁のトンビが舞っております。
あちこちをウロウロしましたが、カラチほどトンビが多い都市を知りません。
カラチは滅多に雨が降りませんが、雨模様の夕空は
4桁は舞っているのではないかと、思わせる程、壮観な眺めです。
なぜ、カラチはトンビが多いのか。餌になるネズミが多いからでしょう。
こちらのゴミ捨て場は、
住宅地の空き地に、10坪程、コの字にブロック囲いがしてあり
そこに、家庭から出る、生ごみ等を捨てるようになっております。
レジ袋等に入った生ごみや、中身だけ放り投げてあったりします。
ゴミ捨て場は、さながらカラスの餌場になっています。
時にはトンビも、上空から、滑空してきます。
ネズミも苦労せずに、餌にありつける分けでして、ネズミが増えれば
トンビも増えると言ったことだろうと、想像しております。
イスラム社会は今月の14日、一昨日から、断食月である、
ラマダン(Ramadan)に入りました。
太陰暦であるイスラム暦の9月は、イスラム教の開祖であるムハンマドに
聖典コーランが、啓示されたと伝えられる神聖な月だそうです。
ラマダン期間は日中、パキ飯屋を初めとしまして、
地元の食堂は、全て店を閉めてしまいます。
僅かに、五つ星のホテル内レストランが一軒ほど、
外人向けに、細々と営業をしておりまして、イスラム教に縁もゆかりもない、
小生はこの、期間中は、昼飯を食べるのに苦労をいたします。
ラマダンにあたるこの約一ヶ月、
イスラム教徒は日の出から日没まで、断食をしなければならないそうですが
断食は日中だけで、日没になりますと、かねてより豪華な食事をするそうです。
翌朝のゴミ捨て場は、
生ゴミがあふれ、さらにトンビの数は、増えることになりそうです。
2007年09月08日
ヤモリ
お互いに、かみ合ってはなしません。完全な逆光で、シルエットになりました。
台所で、食べ物の残りにくる虫を、餌にしている2匹のなわばり争いでしょう。
シンクの生ゴミの中から、突然ヤモリが飛び出してきたりしますと、
ドキッとすることがございます。
ヤモリは、小生の姿に驚いて逃げているわけですが。
寝室の壁にも現れたりします。天井も重力に逆らい歩きます。
推定5匹程のヤモリちゃんと、同居しております。
小生の親父は、
先の大戦で日本陸軍の一兵士としてマレー半島に進駐しておりました。
ある夜、月明かりを頼りに、飯ごうの米を川の水でとぎ、炊いて食べたそうです。
翌朝、飯ごうの中の残り飯を見たら、何か黒い物がたくさん混じっていたそうです。
よく見ると、黒い物はオタマジャクシだったそうです。
オタマジャクシの炊き込みご飯は 「ウンマカッタ」 と親父は言っておりました。
太平洋戦争末期は制空権を完全に奪われ、
補給路を断たれた南方戦線の兵隊さん達は、
ジャングルの中で皆、痩せ細っており、いつもお腹を空かしていたそうです。
再び祖国の土を踏み、父母、妻子の顔を見るまでは死ねないと、生への執念で、
蛇、カエル、トカゲ、ネズミ等、口に入る物はなんでも食べ生き抜いたそうで、
飢餓状態の兵隊さん達には、ヤモリもご馳走だったのでしょうね。
ヤモリは、兵舎に寝ている深夜、上から落ちてきたそうです。
下句は60年以上も前に、親父が南方の戦地で詠んだ句です。
2007年08月31日
パキ飯屋
週に3回はここで食べます。
お客は全員、男性です。この手のパキ飯屋には、滅多に女性は食べにきません。
料理人を含め、従業員も全員男性です。
イスラム圏の国はどこも、そうですが
カラチでもウェイトレスを見たことがありません。
そういう職業は存在していないようです。
小学高学年か中学生位の男の子が料理を運んできたり、
ごつい手をした、ひげ面のオヤジが料理を運んできます。
パキ飯屋の
外観です。
パキスタンの
カラチですが、なぜか屋号は
「ボンベイ」です。
右上は小さな豆カレーで、右下は
野菜カレーに溶き卵が入っております。
スパイシーな香辛料や大辛獅子唐が
オイリーな鍋に潜んでおります。
胃腸の調子が良くないときは、
食べることができません。
お尻に自信がないときも、食べた後の
つらさを考えスプーンの動きが鈍ります。
オーダーし2人でシュアして食べました。
辛いもの好きの小生には、グッドな味です。
チキンレバーカレーとライスで90円。
野菜カレーとライスが70円です。
カレーメニューは豊富で、珍しいところでは
ヤギ脳みそカレーもあります。

2007年08月28日
1982年(Ⅵ)
私が昭和55年の秋、結婚して家を出、弟が昭和56年春結婚して家を出た。
ある日、東坂元へ寄ったらお袋1人だった。
庭に出て、両側の山に挟まれている海をみていたら、
いつの間にか、お袋が後ろに立っていた。
庭を指さして、ここに家を建てて一緒に住まないかと言った。
私はもうチョット待ってくれ、と言ったらお袋は黙っていた。
その後、2ヶ月位経った頃だっただろうか。
もう1回お袋に同居を頼まれたが、そのときも同じ返事をした。
その頃の私の考えは、同居の時期としては、
両親に孫の顔を見てもらえるようになった時がベストだと思っていた。
あまり出歩くことのなかったお袋だったが、
晩年は親父のうしろについて歩くようになった。
武岡墓地の上り坂は弱った心臓には、こたえただろう。
東坂元の上り坂も苦しい胸がドキドキしただろう。
健康な者にとっては足腰を鍛える良い運動でも、心臓の病には逆効果である。
高台で坂道の多い、東坂元へ引っ越したのは間違っていた。
お袋の死期を早めた。私はそう思った。
人は誰でも生まれ落ちた瞬間から、死へ向かってまっしぐらに歩いて行く。
現在、地球上で生活している人々も100年後は99%が生存していないだろう。
150年後は、完全に入れ替わっている。
太陽も一つの燃料だ。いつか燃え尽きる時がくる。
その後はどうなる。地球に他の大きな星が、ぶつかったらどうなる。
未来永劫、不変なものは時間と空間であると、何かの本で読んだことがある。
問題は死に方だ。
健康診断で見つかった病気が、手遅れの末期ガンだったら諦めもつく。
心臓の病が見つかった以降、
家族でいたわり、無理をしないように、気をつけてきた結果だったら仕方がない。
お袋は、どう考えても天寿を全うしたとは思えなかった。
仕事を終えて夜家への帰り道感じる。
あれだけ、東坂元に一緒に住んで欲しいと言った、
お袋の待っていない、その東坂元に帰る空しさ辛さ。
お袋の心臓の病を知らなかった。
この事が、喉に刺さった魚の骨みたいに私を苦しめた。
いくら胃液を出して、胃が蠕動運動しても、お袋の心臓の病を知らなかった。
この事は消化出来なかった。
私は親父に話した。どこか家を建てて引っ越そうかと。
谷山地区に土地を探し新築、引っ越しのイメージを描いていた。
親父は黙って聞いていたが、東坂元から動きたくないという顔をしていた。
数日して、弟から電話がきた。
親父が訪ねてきたらしい。自分が親父と東坂元に住むと言っていた。
この年の9月、私の家族に親父を含む4人で沖縄県、石垣島へ行った。
竹富島のきれいな海は、またいつの日にか、ゆっくり行ってみたいものである。
お袋と約束した東坂元暮らしだったが、
14ヶ月弱で我々親子3人は再び鴨池町へ帰った。
以前の古い家を壊し、新築の2階建てを建てて、昭和58年12月21日の事だった。
弟の家族と一緒だから何も心配はないが、
親父に対して申し訳ない、と言う気持ちを残して東坂元を去った。
ある日、東坂元へ寄ったらお袋1人だった。
庭に出て、両側の山に挟まれている海をみていたら、
いつの間にか、お袋が後ろに立っていた。
庭を指さして、ここに家を建てて一緒に住まないかと言った。
私はもうチョット待ってくれ、と言ったらお袋は黙っていた。
その後、2ヶ月位経った頃だっただろうか。
もう1回お袋に同居を頼まれたが、そのときも同じ返事をした。
その頃の私の考えは、同居の時期としては、
両親に孫の顔を見てもらえるようになった時がベストだと思っていた。
あまり出歩くことのなかったお袋だったが、
晩年は親父のうしろについて歩くようになった。
武岡墓地の上り坂は弱った心臓には、こたえただろう。
東坂元の上り坂も苦しい胸がドキドキしただろう。
健康な者にとっては足腰を鍛える良い運動でも、心臓の病には逆効果である。
高台で坂道の多い、東坂元へ引っ越したのは間違っていた。
お袋の死期を早めた。私はそう思った。
人は誰でも生まれ落ちた瞬間から、死へ向かってまっしぐらに歩いて行く。
現在、地球上で生活している人々も100年後は99%が生存していないだろう。
150年後は、完全に入れ替わっている。
太陽も一つの燃料だ。いつか燃え尽きる時がくる。
その後はどうなる。地球に他の大きな星が、ぶつかったらどうなる。
未来永劫、不変なものは時間と空間であると、何かの本で読んだことがある。
問題は死に方だ。
健康診断で見つかった病気が、手遅れの末期ガンだったら諦めもつく。
心臓の病が見つかった以降、
家族でいたわり、無理をしないように、気をつけてきた結果だったら仕方がない。
お袋は、どう考えても天寿を全うしたとは思えなかった。
仕事を終えて夜家への帰り道感じる。
あれだけ、東坂元に一緒に住んで欲しいと言った、
お袋の待っていない、その東坂元に帰る空しさ辛さ。
お袋の心臓の病を知らなかった。
この事が、喉に刺さった魚の骨みたいに私を苦しめた。
いくら胃液を出して、胃が蠕動運動しても、お袋の心臓の病を知らなかった。
この事は消化出来なかった。
私は親父に話した。どこか家を建てて引っ越そうかと。
谷山地区に土地を探し新築、引っ越しのイメージを描いていた。
親父は黙って聞いていたが、東坂元から動きたくないという顔をしていた。
数日して、弟から電話がきた。
親父が訪ねてきたらしい。自分が親父と東坂元に住むと言っていた。
この年の9月、私の家族に親父を含む4人で沖縄県、石垣島へ行った。
竹富島のきれいな海は、またいつの日にか、ゆっくり行ってみたいものである。
お袋と約束した東坂元暮らしだったが、
14ヶ月弱で我々親子3人は再び鴨池町へ帰った。
以前の古い家を壊し、新築の2階建てを建てて、昭和58年12月21日の事だった。
弟の家族と一緒だから何も心配はないが、
親父に対して申し訳ない、と言う気持ちを残して東坂元を去った。
2007年08月26日
1982年(Ⅴ)
福岡から4人、宮崎から3人、東坂元から2人、真砂から2人。
皆、それぞれの場所から鴨池町の私の家を目指して集まってくれた。
刺身、雑煮、昆布巻き。かしわと人参ゴボウ大根の煮付け。ちらし寿司、
サラダ、それにロースハム、薩摩揚げ、サラミソーセージも大皿に盛ってある。
お腹の大きい女房を気遣い、皆で料理を2階にはこんでくれた。
コタツを2つ並べた食卓は、正月の匂いでいっぱいだ。
親父が年頭にあたり、教訓めいた話をしたあと、ビールとジュースで乾杯。
昭和57年は、こうして始まった。来年の正月は宮崎で集まろう。
その次は、福岡まで行こう。その次は、真砂でやろう。その次が、東坂元だ。
「福岡に出てきますからね」
「ハイ、どうぞ、どうぞ、待ってますょ」
食卓の上を片付け、帰り支度をしながら、お袋と兄嫁との会話である。
しかし、お袋は福岡どころか宮崎にも行けなかった。
私の家で迎えた正月が、お袋にとって最後の正月になった。
昭和57年7月7日の7の三並びの七夕の真夜中に、
初めての子になる長男を授かった。
産まれて2,3日過ぎた日の午前中、
桜ヶ丘にある鹿児島大学付属病院へ親父とお袋を、私の車に乗せて行った。
病棟の面会場所に、まだ目の見えない赤ん坊を
ガーゼみたいな白い布で、くるみ抱いて女房が、そろり、そろり、歩いてきた。
両親とは初めてのご対面である。
孫との対面が終わり東坂元へ送る途中、昼飯は 「末よし」 の鰻を食べにいった。
鰻はお袋の好物である。
私の長男のおかげで鰻を食べることができたと言って、座敷の上で喜んでくれた。
その年の夏は、宮崎の次兄が勉めている職場で、
保養契約している指宿市のホテルに、両親を一泊連れて行くことになっていた。
可愛い盛りの孫(次兄の長男)と初めての旅行である。
指折り待っていたはずだ。
ところが、残念ながら孫が風邪をひき当日、旅行中止になってしまったのだった。
さぞガッカリしただろうと思っていたが、「楽しかった」 と言っているのだ。
変なことを言うと思っている私に、話してくれた。
お袋は、旅行について考え想像したそうだ。
ホテルで皆と一緒に食べる夕食。そのテーブル上の料理の数々。
どんな部屋だろうか。大浴場は。翌朝の朝食。
いろいろ考え想像すると、
旅行を待っているあいだ毎日、楽しくて仕方がなかった。と言うのだ。
お袋は嫌みではなく本当に、こういう考え方のできる人だった。
それを聞き、そんなにお袋は旅行を楽しみにしていたのかと思った。
そういえば、家族でホテルに泊まる旅行はしたことがなかった。
来年夏はどこか連れて行こう。
お袋の実家近くにある、
市来町の国民宿舎へ宿泊の予定を決めていたが実現できない旅行になった。
昭和57年は鴨池町での新年会に始まり、9月、照国神社でのお宮参り、
12月、武岡墓地での納骨で終わった。
皆、それぞれの場所から鴨池町の私の家を目指して集まってくれた。
刺身、雑煮、昆布巻き。かしわと人参ゴボウ大根の煮付け。ちらし寿司、
サラダ、それにロースハム、薩摩揚げ、サラミソーセージも大皿に盛ってある。
お腹の大きい女房を気遣い、皆で料理を2階にはこんでくれた。
コタツを2つ並べた食卓は、正月の匂いでいっぱいだ。
親父が年頭にあたり、教訓めいた話をしたあと、ビールとジュースで乾杯。
昭和57年は、こうして始まった。来年の正月は宮崎で集まろう。
その次は、福岡まで行こう。その次は、真砂でやろう。その次が、東坂元だ。
「福岡に出てきますからね」
「ハイ、どうぞ、どうぞ、待ってますょ」
食卓の上を片付け、帰り支度をしながら、お袋と兄嫁との会話である。
しかし、お袋は福岡どころか宮崎にも行けなかった。
私の家で迎えた正月が、お袋にとって最後の正月になった。
昭和57年7月7日の7の三並びの七夕の真夜中に、
初めての子になる長男を授かった。
産まれて2,3日過ぎた日の午前中、
桜ヶ丘にある鹿児島大学付属病院へ親父とお袋を、私の車に乗せて行った。
病棟の面会場所に、まだ目の見えない赤ん坊を
ガーゼみたいな白い布で、くるみ抱いて女房が、そろり、そろり、歩いてきた。
両親とは初めてのご対面である。
孫との対面が終わり東坂元へ送る途中、昼飯は 「末よし」 の鰻を食べにいった。
鰻はお袋の好物である。
私の長男のおかげで鰻を食べることができたと言って、座敷の上で喜んでくれた。
その年の夏は、宮崎の次兄が勉めている職場で、
保養契約している指宿市のホテルに、両親を一泊連れて行くことになっていた。
可愛い盛りの孫(次兄の長男)と初めての旅行である。
指折り待っていたはずだ。
ところが、残念ながら孫が風邪をひき当日、旅行中止になってしまったのだった。
さぞガッカリしただろうと思っていたが、「楽しかった」 と言っているのだ。
変なことを言うと思っている私に、話してくれた。
お袋は、旅行について考え想像したそうだ。
ホテルで皆と一緒に食べる夕食。そのテーブル上の料理の数々。
どんな部屋だろうか。大浴場は。翌朝の朝食。
いろいろ考え想像すると、
旅行を待っているあいだ毎日、楽しくて仕方がなかった。と言うのだ。
お袋は嫌みではなく本当に、こういう考え方のできる人だった。
それを聞き、そんなにお袋は旅行を楽しみにしていたのかと思った。
そういえば、家族でホテルに泊まる旅行はしたことがなかった。
来年夏はどこか連れて行こう。
お袋の実家近くにある、
市来町の国民宿舎へ宿泊の予定を決めていたが実現できない旅行になった。
昭和57年は鴨池町での新年会に始まり、9月、照国神社でのお宮参り、
12月、武岡墓地での納骨で終わった。
2007年08月24日
1982年(Ⅳ)
10月中旬のある日、
いつものように病室に行くと、お袋がベッドの上に後ろ向き座っていた。
2人部屋の横ベッドのおばさんは、外出したのか病室にはお袋一人だった。
もう外は暗いのに、頭上の灯りが点いていなかった。
私の顔を見るといつも喜んでくれるのに、
その日はどうしたのか暗い中、背中を向けたままだった。
自分の病状を気にして沈んでいたのか、
それとも心細くて泣いていたのか、顔をこちらに向けてもくれなかった。
いつも笑顔を絶やさないお袋にしては珍しいことだっただけに、
今でも時折あの場面で見た、お袋の背中を思い出すことがある。
10月になって早々の頃の話だ。親父が一人で生活しているのが心配だと言った。
私は親父と同居する旨、即答した。
両親が住み始めて6年5ヶ月になる東坂元の住宅は、
私の家族が同居するには狭かった。
平屋の家を2階建てに増築して、間取りはああして、こうしてと言う、
私の話をベッドの中で終始、ニコニコ顔で聞いていた。
私とお袋のまともな会話は、これが最後だった。
両親と同居するつもりで、私の家族3人、10月29日に鴨池の家を後にした。
勤め先の住宅会社にいる建築士に、
本設計前のラフプランの図面を引いてもらった。
平屋を総2階にして、2階にも風呂、トイレ、台所、を設けた二世帯住宅にして、
我々3人は2階に住むようにした。
しかし、11月に暦が移ってからも、一向に病は快方に向かわない。
それどころか、仰向けに寝て、
目を閉じて、苦しそうに早い呼吸をしている姿しか、目にしなくなった。
自宅の庭から折って持って行った、
山茶花の小枝についているピンクの花びらを見る目に元気がない。
たまりかねて転院を勧めたことがあったが、お袋は首を横に振った。
もうそういう気力もなかったのかもしれない。
肘の内側も、手の甲も、点滴の針跡が痛々しい。
あの頃は、本当に祈るような気持ちで、毎日病室に通った。
親父には、色々食べたい物を言ったらしい。
買って持っていっても、ほとんど口にできなかったらしい。
親父にスイカを食べたいと、言ったことがあったそうだ。
時期はずれで買えなかったと言っていたが、ハウス物は一年中出回っている。
果物屋さんに注文して、食べさせてやりたかった。
11月17日見舞ったときは、仰向けの苦しそうな息づかいではなく、
背中を向け横向きで、呼吸もスースーと楽そうに寝ていた。
起こさないように、そっとドアを閉め、これで峠を越えたなと思いながら階段をおりた。
まさかあれが、お袋の見納めになるとも知らないで。
いつものように病室に行くと、お袋がベッドの上に後ろ向き座っていた。
2人部屋の横ベッドのおばさんは、外出したのか病室にはお袋一人だった。
もう外は暗いのに、頭上の灯りが点いていなかった。
私の顔を見るといつも喜んでくれるのに、
その日はどうしたのか暗い中、背中を向けたままだった。
自分の病状を気にして沈んでいたのか、
それとも心細くて泣いていたのか、顔をこちらに向けてもくれなかった。
いつも笑顔を絶やさないお袋にしては珍しいことだっただけに、
今でも時折あの場面で見た、お袋の背中を思い出すことがある。
10月になって早々の頃の話だ。親父が一人で生活しているのが心配だと言った。
私は親父と同居する旨、即答した。
両親が住み始めて6年5ヶ月になる東坂元の住宅は、
私の家族が同居するには狭かった。
平屋の家を2階建てに増築して、間取りはああして、こうしてと言う、
私の話をベッドの中で終始、ニコニコ顔で聞いていた。
私とお袋のまともな会話は、これが最後だった。
両親と同居するつもりで、私の家族3人、10月29日に鴨池の家を後にした。
勤め先の住宅会社にいる建築士に、
本設計前のラフプランの図面を引いてもらった。
平屋を総2階にして、2階にも風呂、トイレ、台所、を設けた二世帯住宅にして、
我々3人は2階に住むようにした。
しかし、11月に暦が移ってからも、一向に病は快方に向かわない。
それどころか、仰向けに寝て、
目を閉じて、苦しそうに早い呼吸をしている姿しか、目にしなくなった。
自宅の庭から折って持って行った、
山茶花の小枝についているピンクの花びらを見る目に元気がない。
たまりかねて転院を勧めたことがあったが、お袋は首を横に振った。
もうそういう気力もなかったのかもしれない。
肘の内側も、手の甲も、点滴の針跡が痛々しい。
あの頃は、本当に祈るような気持ちで、毎日病室に通った。
親父には、色々食べたい物を言ったらしい。
買って持っていっても、ほとんど口にできなかったらしい。
親父にスイカを食べたいと、言ったことがあったそうだ。
時期はずれで買えなかったと言っていたが、ハウス物は一年中出回っている。
果物屋さんに注文して、食べさせてやりたかった。
11月17日見舞ったときは、仰向けの苦しそうな息づかいではなく、
背中を向け横向きで、呼吸もスースーと楽そうに寝ていた。
起こさないように、そっとドアを閉め、これで峠を越えたなと思いながら階段をおりた。
まさかあれが、お袋の見納めになるとも知らないで。
2007年08月22日
1982年(Ⅲ)
照国神社の一つ葉の木の前で、親父、お袋、女房、長男が写っている写真がある。
長男の一ヶ月遅れの、お宮参りの時のものだ。
これが生前の、お袋を写した最後の写真になってしまうとは、
ファインダーを覗いてシャッターを押す私は、夢にも思わなかった。
亡くなる72日前の、昭和57年9月7日のことである。
お祓いを終えて昼食は、城山観光ホテルで中華料理を食べた。
今になって思えば、5人で本当に楽しい食事だった。
その後、10日間位経った頃、お袋が風邪を引いたと電話があった。
長男にうつるといけないので、自宅には来ないように親父は言った。
9月27日の昼前、お袋の様子を見に行って驚いた。
大竜町にある病院から帰ってきたばっかりで、
着替えもせず奥の部屋に一人座り込んで、咳が止まらないようす。
話をするのも苦しそうに、肩で息をして熱のある赤い顔をしていた。
訊いたら、バスで病院の往復をして、
バス停からは上り坂道を歩いて帰ってきたそうだ。
背広のポケットを探ったら千円札が9枚あった。
明日はタクシーで病院へ行くようにと、
それをお袋に渡したら泣いて感謝してくれた。
夜、親父に電話して入院をした方がいいのではと話した。
空きベッドの都合で、9月29日に入院日が決まった。
お袋の読みそうな週刊誌を片手に、
夕方病院へ行ったら2日前と違って少し顔色がよくなっていた。
鴨池町の家に帰ってから、親父と電話で話した。
その時の電話で、
お袋は以前の健康診断で心臓肥大が見つかっていたことを聞いた。
初めて聞く話だった。
受話器を置いてから、それだと入院する病院が違っているのではないかと思った。
風邪をこじらせただけだと思って、大事をとって入院を勧めたつもりだったが。
せめて、入院する前に聞きたかった。
それにしてもなぜ、お袋はそんな大事な事を自分の子供に話してくれないのか。
そんなに頼りないのか。心配をかけまいと考えていたのか。
経済的負担をかけまいと考えたのか。
入院治療費等、子供が4人もいるではないか。四等分すればたいしたことはない。
そのために働き、家族の病気に備え貯金もするはずだ。
母親の病にお金を使わず、いつ何に使えと言うのか。
一定額を超える医療費には補助もある。道はいくらでもあるではないか。
せっかく病気を見つけたのに、これではいったい何のための健康診断か。
自分の親の心配を子供がせずに、いったいどこの誰がしてくれると言うのだろう。
誰でも頭が痛い。目が疲れた。歯が痛い。肩がこった。胃が痛い。腰が痛い。
尿の出が悪い。膝が痛い。便秘が酷い。痔が・・・。自然と口にでるものである。
人に言っても自分の痛み悩み苦しみがなくなるわけはないが、
私のまわりでも友人知人のそう言う話を耳にする。
「喜びは1人に話したら2倍、もう1人に話したら3倍、悲しみは1人に話したら半分、
もう1人に話したら3分の1になって分かち合えるものですよ」 と、小学6年生のとき、
担任の西先生が言っていた。
お袋も本当は回りにいる者。とくに我が子に息苦しい。動悸がする。胸が苦しい。
健康診断で心臓肥大と、冠状動脈硬化症が見つかった、等相談し、
また悩みを聞いて欲しかったのではないか。
体に2つある臓器、肺、腎臓、睾丸、は片方失っても生きて行ける。
肝臓も生体肝移植があるように一部切り取ってもいいが、心臓はいけない。
予備のない、たった1つのポンプである。命と直結している。
心臓に病を持って、不安がないわけがない。
今からでも、心臓の専門医に診てもらった方がいいのでは。
その夜は、寝床に横になってからも、色々考えてなかなか寝付けなかった。
もう心臓に負担のかかる上り坂道は歩かせられない。
高台の家は引っ越した方がいい。それには時間がかかる。
とりあえず同居しよう。そんなことを考えながら寝入っていた。
長男の一ヶ月遅れの、お宮参りの時のものだ。
これが生前の、お袋を写した最後の写真になってしまうとは、
ファインダーを覗いてシャッターを押す私は、夢にも思わなかった。
亡くなる72日前の、昭和57年9月7日のことである。
お祓いを終えて昼食は、城山観光ホテルで中華料理を食べた。
今になって思えば、5人で本当に楽しい食事だった。
その後、10日間位経った頃、お袋が風邪を引いたと電話があった。
長男にうつるといけないので、自宅には来ないように親父は言った。
9月27日の昼前、お袋の様子を見に行って驚いた。
大竜町にある病院から帰ってきたばっかりで、
着替えもせず奥の部屋に一人座り込んで、咳が止まらないようす。
話をするのも苦しそうに、肩で息をして熱のある赤い顔をしていた。
訊いたら、バスで病院の往復をして、
バス停からは上り坂道を歩いて帰ってきたそうだ。
背広のポケットを探ったら千円札が9枚あった。
明日はタクシーで病院へ行くようにと、
それをお袋に渡したら泣いて感謝してくれた。
夜、親父に電話して入院をした方がいいのではと話した。
空きベッドの都合で、9月29日に入院日が決まった。
お袋の読みそうな週刊誌を片手に、
夕方病院へ行ったら2日前と違って少し顔色がよくなっていた。
鴨池町の家に帰ってから、親父と電話で話した。
その時の電話で、
お袋は以前の健康診断で心臓肥大が見つかっていたことを聞いた。
初めて聞く話だった。
受話器を置いてから、それだと入院する病院が違っているのではないかと思った。
風邪をこじらせただけだと思って、大事をとって入院を勧めたつもりだったが。
せめて、入院する前に聞きたかった。
それにしてもなぜ、お袋はそんな大事な事を自分の子供に話してくれないのか。
そんなに頼りないのか。心配をかけまいと考えていたのか。
経済的負担をかけまいと考えたのか。
入院治療費等、子供が4人もいるではないか。四等分すればたいしたことはない。
そのために働き、家族の病気に備え貯金もするはずだ。
母親の病にお金を使わず、いつ何に使えと言うのか。
一定額を超える医療費には補助もある。道はいくらでもあるではないか。
せっかく病気を見つけたのに、これではいったい何のための健康診断か。
自分の親の心配を子供がせずに、いったいどこの誰がしてくれると言うのだろう。
誰でも頭が痛い。目が疲れた。歯が痛い。肩がこった。胃が痛い。腰が痛い。
尿の出が悪い。膝が痛い。便秘が酷い。痔が・・・。自然と口にでるものである。
人に言っても自分の痛み悩み苦しみがなくなるわけはないが、
私のまわりでも友人知人のそう言う話を耳にする。
「喜びは1人に話したら2倍、もう1人に話したら3倍、悲しみは1人に話したら半分、
もう1人に話したら3分の1になって分かち合えるものですよ」 と、小学6年生のとき、
担任の西先生が言っていた。
お袋も本当は回りにいる者。とくに我が子に息苦しい。動悸がする。胸が苦しい。
健康診断で心臓肥大と、冠状動脈硬化症が見つかった、等相談し、
また悩みを聞いて欲しかったのではないか。
体に2つある臓器、肺、腎臓、睾丸、は片方失っても生きて行ける。
肝臓も生体肝移植があるように一部切り取ってもいいが、心臓はいけない。
予備のない、たった1つのポンプである。命と直結している。
心臓に病を持って、不安がないわけがない。
今からでも、心臓の専門医に診てもらった方がいいのでは。
その夜は、寝床に横になってからも、色々考えてなかなか寝付けなかった。
もう心臓に負担のかかる上り坂道は歩かせられない。
高台の家は引っ越した方がいい。それには時間がかかる。
とりあえず同居しよう。そんなことを考えながら寝入っていた。