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gonngoetsu
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写真は死海で浮かんだときのものです。関東在住の団塊世代です。
鹿児島市には37歳まで住んでおりました。10代の中頃から、エルヴィスとビートルズを聴き初め、いまだに聴いております。
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Posted by チェスト at

2007年04月26日

キリストの墓



キリスト磔の地です。一昨年の11月行きました。
前回に引き続きまして「ゴルドバの丘」報告です。

磔になったキリストは死後、この写真に写っている大理石の台上に
安置されたようです。

石台の向こう側にしゃがみこんでいる白黒写真の謎の人物は誰でしょうか。
キリスト磔の地だけに、イエス・キリスト復活かとお思いの方もおありでしょうか。

改めて紹介するまでもなく、小生がしゃがみこんでおります。
クリアなカラーに耐えないものでモノクロに置き換えてみました。

多くの信者がひっきりなしに訪れ、石台に口づけする人、
石台を抱擁する人でごった返しておりました。


イエス・キリストは
日本式に言うと
神話上の人物と
思っておりました。

クリスチャンの方々から
おこられそうですが
キリストさんは
実在の
人物だったのですかね。

この場所は
4~5人が入れる
狭いスペースです。

石棺が目の前にあり
棺に触れることも
できます。

この写真の祭壇下に
キリストさんの
石棺があります。
アーメン。

Amazing Grace how sweet the sound
『奇跡』―それはなんという優しい響きか。

That saved a wretch like me
私のような心卑しい者でさえ、彼の方は救い給う。

I once was lost but now I'm found Was blind but now I see
私は失くしていた道を見いだせた。 見えずにいたことが、今は私の目にも映る。

When we've been there ten thousand years
私たちは万年の時を光輝きつづける

Bright shining as the sun
太陽のようにそこにいて、

We've no less days to sing God's praise Than when we first begun
永い永い日々、神への賛美を歌い続けよう。 信じ始めた心のままに。

Through many dangers, toils, and snares I have already come
さまざまな危難、罠を通り抜けてきた。

Tis grace hath brought me safe thus far
神の加護が私を危機から遠ざけ、

And grace will lead me home
懐かしい我が家へと導き給う。

上記歌詞は Amazing Grace のエルヴィスバージョンです。  


Posted by gonngoetsu at 00:31Comments(1)旅の思い出(中東)

2007年04月16日

嘆きの壁



写真は「嘆きの壁」です。
2005年10月26日から12泊イスラエルにおりました。
キリストが磔になった場所「ゴルドバの丘」へ行きました。

「ゴルドバの丘」報告を2回に分けてさせていただきます。1回目は「嘆きの壁」、
2回目はキリスト磔の地にある「キリストの墓」を予定しております。

ユダヤ人にとりましての聖地、「嘆きの壁」は向かって左が男性用。
右が女性用の壁となって壁の前は大きな広場になっていました。

第3次中東戦争(1967年).以前はアラブ人パレスチナ人の家が
建ち並んでいたそうですが爆撃で破壊され、広大な広場になってしまったそうです。

「嘆きの壁」というのは、かつての神殿がローマ軍に破壊され、
神殿の西壁だけが残ったそうです。これが「嘆きの壁」と呼ばれています。 

エルサレムと言えば、必ずこの「嘆きの壁」が浮かんできますが、歴史的に見れば
ごく最近のことだそうで第3次中東戦争でイスラエルは旧市街を含む東エルサレムを
ヨルダンから奪いました。

西暦70年にローマ軍によって神殿が破壊されて以来、実に1900年ぶりに、
ここで自由にユダヤ教徒の礼拝ができるようになったそうです。

パレスチナ過激派は、2005年8月に返還されたガザ地区だけでなく、
次はヨルダン川西岸と東エルサレムの奪還を叫んでいますが、
イスラエルは旧市街を含む東エルサレムは絶対に手放さないだろうと
みられております。  


Posted by gonngoetsu at 05:52Comments(2)旅の思い出(中東)

2007年04月06日

死海 (DEAD SEA)



写真は死海へ行く途中の海抜0メータ ー(SEA LEVEL) 地点にある看板です。
この地点下は海抜マイナスの海面下になります。

2003年の2月ヨルダンのアンマンにおりました。
ホテルを出発する朝の温度は肌寒く、これじゃ裸になって水に入るのはとても
むりだと思い海水パンツはホテルの荷物の中に残したままでした。

ついに、やって来ました。海面下、約400Mの地球上で一番低地です。
なんと暖かいのです。

山を100M登るにしたがって気温が0.6℃ 下がるとご存じですよね。
と言うことは、海面下に100M下がると気温が0.6℃ 上がると言うことですよね。
アンマンは標高800Mの、丘の街です。 死海は海面下約400Mの
地球上で一番低地です。アンマンと死海の高低差は1200Mあります。

アンマンと死海の温度差は1200×0.6=7.2℃ ですね。
なにか中学生の理科の授業みたいになってきましたね。ブログを読んで
知識が身に付く。ためになる鹿児島ブログ「チェスト」ですね。
ホテルを出発する朝の肌寒い温度から昼の日差しに変わり、加えて7.2℃ の
温度上昇。これで裸になってもまったく問題はありません。

何人も湖面に浮かんでおります。人間が浮くと言うことは人より湖水の方が比重が
大きいわけでしてその関係か、重たい湖水である湖面にほとんど
波が立っておりません。浮かんでいる人々を前にしますと、海水パンツを
ホテルに残してきたことが悔やまれました。

しかしながら、「薩摩隼人のはしくれ」です。死海を前にしてこのまま
引き下がるわけにはいきません。パンツイッチョになりまして、
湖岸を離れてみました。足裏の感覚はヌルヌルしており、その湖底の泥が
美容等にいいそうで、死海の泥は容器に入れ販売しておりました。

ヌルヌルに気をつけないと滑りそうでゆっくり、ゆっくり歩いてみました。
焼酎のお湯割りを造る際に、お湯と焼酎がグラス内で混ざる液体の動きが目に
見えますが、湖水もかき回しますと透明な液体の動きが目にみえます。

水面が股下の辺りで体を水にあずけてみました。
な、なんと沈みません。浮かびました。沈みません。
初めて体験する不思議な感覚です。
頭は水面から80度おこし肩も水面上に出ております。

両手は水面から90度おこし
肘関節から先が水面上にでております。
写真をご覧なられますと
お分かりのように両足は
膝関節から先を水面上にだして
足の裏までお見せいたしておりますが、
沈まないのです。
快適です。

仰向けのラッコ状態で
両手を櫓にしまして湖岸を約20M
離れてみました。何も努力せずに浮かぶ感覚は愉快でもあります。シンクロだと
かなり難度の高い演技が出来るのでは。身も心も水にあずけた無の境地です。
死海と言いますと、湖面に浮かんで雑誌や新聞を読んでいる姿を
イメージしておりました。それは可能だなと、思って浮かんでおりました。
ところ・・。が・・。

何かヒリヒリしてきました。まだ10分も浮かんでいないのに。ヒリヒリするのです。
快適ではなくなりました。愉快でもありません。ヒリヒリしますと
無の境地どころではございません。

小生は少しばかり湖岸を離れすぎたようです。
これは大変です。あまりダメージを受けない内にと、180度方向転換し
両手を櫓にしまして、仰向けのラッコ状態は湖岸を目指しましたが、
浮力がありすぎましてスピードが出ません。ヒリヒリは容赦なく続いております。

濃度30%と言う強烈な塩水に洗われて先っぽの方は、
ヒリヒリからジンジンに変わってきました。ヒリヒリからジンジンです。
急がないと、ジンジンがズッキン、ズッキンに変わる可能性も考えられます。

塩もみになった、キュウリやナスの、つらい気持ちが分かるような気がしてきました。
不意をつかれた無防備の、かわいそうなナスは「なすがまま」です。
「キュウリがパパ」ですね。と、くだらんオヤジギャグを言う余裕はございません。

シンクロで難度の高い演技等とても無理です。
死海の湖面に浮かんで優雅に雑誌や新聞を読んでいる姿、
あれはヤラセにちかいものがあったのでしょうか。

「薩摩隼人のはしくれ」ですが、ヒリヒリは苦手です。「薩摩隼人のはしくれ」ですが
ヒリヒリからジンジンに変わりますと、どうにもこらえきれません。
ヒリヒリ、ジンジンがズッキン、ズッキンになるのを避けられるのでしたら、
「薩摩隼人のはしくれ」と言う名誉ある称号を返上してもいいと思ってしまう小生は
「薩摩隼人のはしくれ」を名乗る資格のない意志の弱いダメな人間でしょうか。

しかし、こちらの方から責められるとは思ってもみませんでした。
ジンジン攻撃に耐えている部分は、もう赤く変色しているかもしれません。
ようやく湖面に近づき立ち上がりました。
がに股歩きで湖面を離れなんとか危機を脱しました。
それでもヒリヒリ、ジンジンはしばらく続いておりました。

男性よりも長い時間、湖面で遊ぶ女性は、皆無のようでした。
様子をみておりますと、ご婦人方はヒリヒリに早く気づかれるようです。
ヒリヒリの段階で気づくのでジンジンまで行かれる女性はいないようです。

湖面で遊ぶ時間が男性より女性が短いのはなぜか。
なぜ、ご婦人方はヒリヒリに早く気づかれるのか。
男性と女性のこの差はどこからくるか。これは、ヒリヒリする面積が男性に比べ
ご婦人方は広いのが原因ではなかろうか思われます。

入水時間はヒリヒリ面積の大きさに反比例していると思われ、
ヒリヒリエリアの感度の鈍さには正比例すると思われます。

ヨルダン人には、観光客にたいして入水前にヒリヒリ、ジンジンを知らせる
親切心はないものでしょうか。せめて湖岸に立て看板が1つ欲しかった。

「ヒリヒリ、ジンジンにご注意」と記した立て看板が。  


Posted by gonngoetsu at 00:12Comments(4)旅の思い出(中東)