2010年01月31日
今日のランチ
今日 (1月30日土曜日) のランチです。
①太平洋を望みながら食べたレストランです。
②飲み物は、レモン水シャーベットみたいなものです。
③エビサラダです。
④小魚の素揚げです。
⑤赤貝の刺身です。
⑥生牡蠣です。
⑦ロブスター&白身魚です。
⑧食事の帰りに立ち寄ったアイスクリーム屋さんです。
贅沢なランチでした。
エルサルバドルは火山国であり
地震国でもあるそうで各地に火山が点在しているそうです。
当地に来た18日は、かなり大きく感じた地震があり一瞬緊張しました。
ハイチ地震の件もあり、
道路には建物から非難した人が不安げにしていました。
ホテルからも
すぐ近くに火山が見えます。
休火山で公園になっています。
その
EL BOQUERON NATIONAL PARK へ
行って来ました。
標高は2000M弱。火口の直径1.6Km 。火口のふちから写しました。
すり鉢状の底は深さ558Mだそうです。
トイレが設置してあります。
排泄物を溜める便槽はなさそうで、
地下浸透ます方式と思われます。
トイレットペーパーや
手洗いの水道設備もありませんでした。
便器は既製品の陶製ではなく、
コンクリートにタイル貼りでした。
可動式の便座はなく、肌の触れる座面はコンクリートです。
管理が行き届いているのか、綺麗に掃除がしてありました。
潔癖症 (不潔恐怖症) の人がここに腰掛けるには、かなり勇気がいりそうです。
SUCHITOTO (スチトト) へ行きました。
サンサルバドル市から北へ44Kmです。
教会前の広場です。
お土産屋さんに、
コマ、
ケンダマの様なもの
ぱちんこ等
懐かしい
おもちゃがならんでいました。
スチトトの人造湖です。
From エルサルバドル
2010年01月23日
ホテルの窓から
朝食を食べたテラスから写しました。
標高650~900mの高原都市で、
年平均気温は摂氏23℃
上着なし、昼間は半袖でも大丈夫です。
日中は、ホテル部屋、
車中ともクーラーが効いています。
エルサルバドルとは「救世主」の意味だそうです。
Rrom サンサルバドル (エルサルバドル)
2010年01月18日
ホテルの窓から
乗り換え便の都合で、空港近くのホテル2階の一室をデイユースしています。
ロスにはめずらしく今、雨 (小雨) が降っています。
今、1月17日の午後2時50分です。
今夜の11時55分発の便でロスを離れます。
From Los Angeles
2010年01月17日
さくらラウンジ
今、成田空港第2ターミナル、さくらラウンジのPCキーボードをたたいています。
窓の外には、夕日を浴びた銀翼が見えます。
約1時間後の17:15発の便に搭乗します。
中米2カ国、南米1カ国、乗り換え便の都合でロス1泊。
合計4カ国に入国します。
今はとにかく寒い日本を早く脱出し
暖房ではなくクーラーの効いたホテルでくつろぎたい気持ちです。
窓の外には、夕日を浴びた銀翼が見えます。
約1時間後の17:15発の便に搭乗します。
中米2カ国、南米1カ国、乗り換え便の都合でロス1泊。
合計4カ国に入国します。
今はとにかく寒い日本を早く脱出し
暖房ではなくクーラーの効いたホテルでくつろぎたい気持ちです。
2010年01月14日
自分史 2-7
相変らず寝たきり状態の私にお袋が言った。
「一郎さんに頼んでみようか。」
一郎さんは、鍼灸学校の校長先生をしておられた。
お袋とは遠縁の親戚になる人らしかった。
体が弱かった長兄も小生校の頃、一郎先生に
お灸をしてもらい、体質改善をしたんだとお袋は言った。
お袋と2人で純心学園正門近くの一郎先生宅を訪ねた。
一郎先生は、私の体を診てから治してあげましょうと言われた。
それから月に一回、
一郎先生宅を訪れ、灸点に印を付けてもらい自宅で親父から施灸してもらった。
当初は目立った効果は表れなかったが、他に私の選択肢はなかった。
12月になってすぐの頃、
職場の総務課長と工務課長が私の家を訪ねてきた。
用件は、私に会社を辞めて欲しいと言うことだった。
無理もない話だった。私は辞職に同意した。
カクイわた㈱は在籍20ヵ月の内、半分以上は欠勤していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
******** 今になって、40年前の当時をふりかえりますと
人生に 「もしも」 はありませんが、
あの時、辞職せず、カクイわた㈱で定年まで勤め上げていたら
あの時、あの娘と別れていなければ、
地元の鹿児島で、また違った人生があっただろう、
どんな人生を過ごしたのだろうと、思うことがあります。
カクイわた㈱を辞めた私は、その後勤め先を20回変える
転職20回人生を、歩むことになります。
「一郎さんに頼んでみようか。」
一郎さんは、鍼灸学校の校長先生をしておられた。
お袋とは遠縁の親戚になる人らしかった。
体が弱かった長兄も小生校の頃、一郎先生に
お灸をしてもらい、体質改善をしたんだとお袋は言った。
お袋と2人で純心学園正門近くの一郎先生宅を訪ねた。
一郎先生は、私の体を診てから治してあげましょうと言われた。
それから月に一回、
一郎先生宅を訪れ、灸点に印を付けてもらい自宅で親父から施灸してもらった。
当初は目立った効果は表れなかったが、他に私の選択肢はなかった。
12月になってすぐの頃、
職場の総務課長と工務課長が私の家を訪ねてきた。
用件は、私に会社を辞めて欲しいと言うことだった。
無理もない話だった。私は辞職に同意した。
カクイわた㈱は在籍20ヵ月の内、半分以上は欠勤していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
******** 今になって、40年前の当時をふりかえりますと
人生に 「もしも」 はありませんが、
あの時、辞職せず、カクイわた㈱で定年まで勤め上げていたら
あの時、あの娘と別れていなければ、
地元の鹿児島で、また違った人生があっただろう、
どんな人生を過ごしたのだろうと、思うことがあります。
カクイわた㈱を辞めた私は、その後勤め先を20回変える
転職20回人生を、歩むことになります。
2010年01月12日
自分史 2-6
本木下外科に入院以来、鮫島鍼灸院に歩いて通っていたが
左腰から左足にかけての痛みは快方に向かわなかった。
むしろ鮫島鍼灸院に通い始めた頃よりも症状は悪くなってきた。
私は、お灸をしたら痛みは楽になると思っていたので
お灸をしても痛みが増してくる状況には途方にくれた。
7月に入ってから益々症状が悪くなった。
まず歩けなくなった。10M位歩くと立っていられない。
その場にしゃがみ込んで痛みをこらえる。
一息ついて10M歩くと又その場にしゃがみ込んで痛みをこらえる。
といった具合である。歩けないので鮫島鍼灸院に通えなくなった。
一度に歩ける距離も10Mから8M。8Mから6Mと短くなってきた。
こういう症状を医学用語では間欠性跛行症と言う。真っ直ぐに立つことができない。
体が健側の右に湾曲するのだ。
かなり前から前屈はできなかったが、頭を前傾しただけで左腰から左足にかけて
激しい痛みが走る。
痛みで思いっきりクシャミができない。
ゆっくりと時間をかけて体を動かさないと寝返りもできない。
左側を下し、体をくの字に曲げて寝るのが一番楽な姿勢だった。
仰向けに寝た姿勢では起き上がれなかった。
起き上がる時はまず、左側を下にして
両膝を曲げ、両手で体を支えゆっくり時間をかけてしゃがむ姿勢になり
それから立ち上がるといった具合だった。
私はこのまま症状が進むと寝たきり状態で動けなくなると思った。
本木下外科で寝たきりになるわけにはいかない。
医者も私の症状には手をこまねいていただけだった。
私は院長に退院を申し出た。
7月末のことだった。
それまでは、それなりに順調にきた私の人生の最大のピンチだった。
今後の展望が開けない。夢も希望もないお先真っ暗だった。
8月は自宅で寝たきり状態で過ごした。
E子からは手紙がくるが勿論会いに行ける状態ではない。
E子から又手紙がきた。
体の痛みで女の子と付き合えるような精神状態ではなかった。
ハッキリさせないといけないと思った。
9月になって痛む体をタクシーに乗せ別れを告げにE子のアパートまで行った。
左腰から左足にかけての痛みは快方に向かわなかった。
むしろ鮫島鍼灸院に通い始めた頃よりも症状は悪くなってきた。
私は、お灸をしたら痛みは楽になると思っていたので
お灸をしても痛みが増してくる状況には途方にくれた。
7月に入ってから益々症状が悪くなった。
まず歩けなくなった。10M位歩くと立っていられない。
その場にしゃがみ込んで痛みをこらえる。
一息ついて10M歩くと又その場にしゃがみ込んで痛みをこらえる。
といった具合である。歩けないので鮫島鍼灸院に通えなくなった。
一度に歩ける距離も10Mから8M。8Mから6Mと短くなってきた。
こういう症状を医学用語では間欠性跛行症と言う。真っ直ぐに立つことができない。
体が健側の右に湾曲するのだ。
かなり前から前屈はできなかったが、頭を前傾しただけで左腰から左足にかけて
激しい痛みが走る。
痛みで思いっきりクシャミができない。
ゆっくりと時間をかけて体を動かさないと寝返りもできない。
左側を下し、体をくの字に曲げて寝るのが一番楽な姿勢だった。
仰向けに寝た姿勢では起き上がれなかった。
起き上がる時はまず、左側を下にして
両膝を曲げ、両手で体を支えゆっくり時間をかけてしゃがむ姿勢になり
それから立ち上がるといった具合だった。
私はこのまま症状が進むと寝たきり状態で動けなくなると思った。
本木下外科で寝たきりになるわけにはいかない。
医者も私の症状には手をこまねいていただけだった。
私は院長に退院を申し出た。
7月末のことだった。
それまでは、それなりに順調にきた私の人生の最大のピンチだった。
今後の展望が開けない。夢も希望もないお先真っ暗だった。
8月は自宅で寝たきり状態で過ごした。
E子からは手紙がくるが勿論会いに行ける状態ではない。
E子から又手紙がきた。
体の痛みで女の子と付き合えるような精神状態ではなかった。
ハッキリさせないといけないと思った。
9月になって痛む体をタクシーに乗せ別れを告げにE子のアパートまで行った。
2010年01月10日
自分史 2-5
入院していると時間はたっぷりある。
私も何か一つくらい資格に挑戦しょうと思って考えた。
工業高校は機械科卒である。
機械科卒に関連する資格に、ボイラー技士がある。
高校機械科卒だと1級、2級ある免許の2級を持っていなくても
一足飛びに1級の受験資格があった。そこで1級ボイラー技士に的をしぼった。
職場のカクイわた㈱工場に大きなボイラーが設置してあり
職場のボイラー技士とも気安く声をかけてもらったりしていた。
職場にボイラーが設置してあり、職場にボイラー技士がいたことで
免許申請書に添付する必要書類はなんとかなったが
試験日まで時間がない。
専門用語は良くわからない。
ゆっくり解説書を読むゆとりはなかった。
そこで簡単な問題集1冊。難しい問題集1冊。
この2冊の出題パターンを、病院のベッドの上で頭に叩き込んだ。
ベッド上で勉強に集中できたおかげで
1級ボイラー技士免許証は6月末に交付された。
私も何か一つくらい資格に挑戦しょうと思って考えた。
工業高校は機械科卒である。
機械科卒に関連する資格に、ボイラー技士がある。
高校機械科卒だと1級、2級ある免許の2級を持っていなくても
一足飛びに1級の受験資格があった。そこで1級ボイラー技士に的をしぼった。
職場のカクイわた㈱工場に大きなボイラーが設置してあり
職場のボイラー技士とも気安く声をかけてもらったりしていた。
職場にボイラーが設置してあり、職場にボイラー技士がいたことで
免許申請書に添付する必要書類はなんとかなったが
試験日まで時間がない。
専門用語は良くわからない。
ゆっくり解説書を読むゆとりはなかった。
そこで簡単な問題集1冊。難しい問題集1冊。
この2冊の出題パターンを、病院のベッドの上で頭に叩き込んだ。
ベッド上で勉強に集中できたおかげで
1級ボイラー技士免許証は6月末に交付された。
2010年01月08日
自分史 2-4
昭和44年(1969年)になった。
高校卒業までは
毎日学校帰りに立ち寄って治療してもらっていた薬師町の鮫島鍼灸院に
社会人になってから時間の都合がつかずに通わなかった。
それで、それまで痛いながらも安定していた左腰、左足の痛みが又、
だんだんと悪化していくのが分かっていた。
仕事でも時には痛いのを我慢して重い物を持ったりしなければならない。
益々、左腰、左足の痛みは激しくなった。
10分間立っていると
左腰から左足にかけての痛みに我慢できずしゃがみ込んでしまう。
もう限界だった。もう仕事はできない。
私は考えた。病院では私の病気は治らない。
しかし、会社を長期欠勤するには医者の診断書が必要だ。
病院はどこでもよかった。
とにかく病院に入院して病院から薬師町の鮫島鍼灸院に通えばいいと。
この年の春
鮫島鍼灸院に歩いて通える西田橋西側にある本木下外科へ診察に行った。
医者は私の症状を診て、即入院を勧めた。
本木下外科での治療も
田平整形外科、白石整形外科の治療と同じく私には何の効果もなかった。
本木下外科から鮫島鍼灸院へ再び通うことになった。
この頃、クールファイブの 「長崎は今日も雨だった」 が大ヒットした。
私より遅れてE子が盲腸炎で入院してきた。
E子はデパート勤めをしていた。E子は私が付き合った3人目の女性になった。
やさしくて、よく気がつく娘だった。
私はE子が退院してからも、
週2回程は病院を抜け出しE子のアパートへ泊りに行った。
高校卒業までは
毎日学校帰りに立ち寄って治療してもらっていた薬師町の鮫島鍼灸院に
社会人になってから時間の都合がつかずに通わなかった。
それで、それまで痛いながらも安定していた左腰、左足の痛みが又、
だんだんと悪化していくのが分かっていた。
仕事でも時には痛いのを我慢して重い物を持ったりしなければならない。
益々、左腰、左足の痛みは激しくなった。
10分間立っていると
左腰から左足にかけての痛みに我慢できずしゃがみ込んでしまう。
もう限界だった。もう仕事はできない。
私は考えた。病院では私の病気は治らない。
しかし、会社を長期欠勤するには医者の診断書が必要だ。
病院はどこでもよかった。
とにかく病院に入院して病院から薬師町の鮫島鍼灸院に通えばいいと。
この年の春
鮫島鍼灸院に歩いて通える西田橋西側にある本木下外科へ診察に行った。
医者は私の症状を診て、即入院を勧めた。
本木下外科での治療も
田平整形外科、白石整形外科の治療と同じく私には何の効果もなかった。
本木下外科から鮫島鍼灸院へ再び通うことになった。
この頃、クールファイブの 「長崎は今日も雨だった」 が大ヒットした。
私より遅れてE子が盲腸炎で入院してきた。
E子はデパート勤めをしていた。E子は私が付き合った3人目の女性になった。
やさしくて、よく気がつく娘だった。
私はE子が退院してからも、
週2回程は病院を抜け出しE子のアパートへ泊りに行った。
2010年01月06日
自分史 2-3
3ヵ月間の入院で退院し、職場復帰した私は、工務課に復職した。
9月になって○美が鹿児島に帰って来ていると私の友人に聞いた。
東千石町のダンスホール 「フロリダ」 で踊っていたのを見かけたらしい。
○美は天文館電停前の靴屋 「ニューY屋」 で働いているらしかった。
数日後、私は○美の職場へ思いきって電話をしてみた。
○美は意外にも私の電話を喜んでくれた。
再会の約束をした私は、当日夜、約10ヵ月ぶりに○美にあった。
約10ヵ月前に別れた時は、おさげ髪だったのが
パーマのショートヘアーになっていた。
当時流行っていた同伴喫茶店に行ったりカウンターでお酒を飲んだりして
照国町のホテル 「ふじ」 へ一緒に行った。
この時、私はまだ童貞だった。
それから、再び付き合えるつもりでいたが、○美には私より本命の彼氏がいた。
林田ビル地階のダンスホール 「ロマンス」 でエレキギターを弾いている男だった。
鹿児島市の秋の終わりを告げるおはら祭り
職場からも踊り連が参加し
私も白足袋で
流れる音楽に調子を合わせ終点の照国神社まで同僚達の中に混ざった。
おはら祭りがきっかけになって宣伝課のM子と親しくなり暫く付き合った。
M子は私より一つ年上で性格は陽気で積極的で快活な女性だった。
デート場所は、夜の天文館。ショットバー 「ボンド」 へよく通った。
普通自動車の運転免許証は田上自動車学校でこの年の暮に取得した。
入学から実技試験合格まで40日。費用は20.000円弱だった。
9月になって○美が鹿児島に帰って来ていると私の友人に聞いた。
東千石町のダンスホール 「フロリダ」 で踊っていたのを見かけたらしい。
○美は天文館電停前の靴屋 「ニューY屋」 で働いているらしかった。
数日後、私は○美の職場へ思いきって電話をしてみた。
○美は意外にも私の電話を喜んでくれた。
再会の約束をした私は、当日夜、約10ヵ月ぶりに○美にあった。
約10ヵ月前に別れた時は、おさげ髪だったのが
パーマのショートヘアーになっていた。
当時流行っていた同伴喫茶店に行ったりカウンターでお酒を飲んだりして
照国町のホテル 「ふじ」 へ一緒に行った。
この時、私はまだ童貞だった。
それから、再び付き合えるつもりでいたが、○美には私より本命の彼氏がいた。
林田ビル地階のダンスホール 「ロマンス」 でエレキギターを弾いている男だった。
鹿児島市の秋の終わりを告げるおはら祭り
職場からも踊り連が参加し
私も白足袋で
流れる音楽に調子を合わせ終点の照国神社まで同僚達の中に混ざった。
おはら祭りがきっかけになって宣伝課のM子と親しくなり暫く付き合った。
M子は私より一つ年上で性格は陽気で積極的で快活な女性だった。
デート場所は、夜の天文館。ショットバー 「ボンド」 へよく通った。
普通自動車の運転免許証は田上自動車学校でこの年の暮に取得した。
入学から実技試験合格まで40日。費用は20.000円弱だった。
2010年01月04日
自分史 2-2
入社して3日目だった。
米山さんと500Kg程の丸い鉄柱を地面を這わせて移動中
右足の甲を地面と丸い鉄柱の間に挟んでしまった。
次の日は、鴨池動物園横の阿久根病院のベッド上にいた。
右足の甲骨にヒビが入ったのだった。
阿久根病院へは会社の人が車で連れてきてくれた。
院長の父親は私の親父と昔、戦地で一緒だったらしい。
親父の話では、院長の父親は戦後、養豚で儲かった人らしい。
残飯をもらって餌代をかけずに豚を大きくし
当時としては効率の良い利殖だったのだろう。
阿久根病院では2人部屋で先客は国立鹿児島大学農学部のY教授だった。
ひっきりなしに、鹿大の学生が見舞いにやってきた。
私が入院して幾日か過ぎたある日、Y教授と雑談していたら
私の出身高校を訊ねてきた。
私は県立鹿工ですと返事した。
するとY教授は、「君は大学にいく気はないか」 と言った。
私が生返事をしていたら、
「学部がどこでもよければ明治大学へ入れてあげられるのだけど」 と言った。
しかし勿論ただではない。裏金が30万円必要だと言った。
世間で聞いている裏口入学の相場からするとかなり安かった。
それでも、私の初任給は月給で19.800円だった。
裏口入学するには月給の15倍強が必要だった。
聞き過ごすしかなかった。
初月給の19.800円は入社して3日間しか出社していない私にも
労災保険で満額支払われた。
係長がベッドの上まで給料袋を持ってきてくれた。
その中から、3.000円を食費として母親に渡し、弟には小遣いを1.000円渡した。
しばらくすると、Y教授は退院していった。
Y教授のあと、入院してきたのは清水さん。
50才代で夫婦仲の良い人だった。奥さんがよくベッドの回りをウロウロしていた。
清水さんは、錦江湾内の運搬船の船長をしており串木野出身の人だった。
清水さんとの雑談の中では、和吉お祖父さんの話がでてきた。
和吉お祖父さんを知っていると言うのだ。
清水さんの話では、お祖父さんは人一倍の働き者で持ち舟を毎日一人で砂地に
押し上げるくらいに、舟を大切に使っていたらしい。
米山さんと500Kg程の丸い鉄柱を地面を這わせて移動中
右足の甲を地面と丸い鉄柱の間に挟んでしまった。
次の日は、鴨池動物園横の阿久根病院のベッド上にいた。
右足の甲骨にヒビが入ったのだった。
阿久根病院へは会社の人が車で連れてきてくれた。
院長の父親は私の親父と昔、戦地で一緒だったらしい。
親父の話では、院長の父親は戦後、養豚で儲かった人らしい。
残飯をもらって餌代をかけずに豚を大きくし
当時としては効率の良い利殖だったのだろう。
阿久根病院では2人部屋で先客は国立鹿児島大学農学部のY教授だった。
ひっきりなしに、鹿大の学生が見舞いにやってきた。
私が入院して幾日か過ぎたある日、Y教授と雑談していたら
私の出身高校を訊ねてきた。
私は県立鹿工ですと返事した。
するとY教授は、「君は大学にいく気はないか」 と言った。
私が生返事をしていたら、
「学部がどこでもよければ明治大学へ入れてあげられるのだけど」 と言った。
しかし勿論ただではない。裏金が30万円必要だと言った。
世間で聞いている裏口入学の相場からするとかなり安かった。
それでも、私の初任給は月給で19.800円だった。
裏口入学するには月給の15倍強が必要だった。
聞き過ごすしかなかった。
初月給の19.800円は入社して3日間しか出社していない私にも
労災保険で満額支払われた。
係長がベッドの上まで給料袋を持ってきてくれた。
その中から、3.000円を食費として母親に渡し、弟には小遣いを1.000円渡した。
しばらくすると、Y教授は退院していった。
Y教授のあと、入院してきたのは清水さん。
50才代で夫婦仲の良い人だった。奥さんがよくベッドの回りをウロウロしていた。
清水さんは、錦江湾内の運搬船の船長をしており串木野出身の人だった。
清水さんとの雑談の中では、和吉お祖父さんの話がでてきた。
和吉お祖父さんを知っていると言うのだ。
清水さんの話では、お祖父さんは人一倍の働き者で持ち舟を毎日一人で砂地に
押し上げるくらいに、舟を大切に使っていたらしい。


