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gonngoetsu
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写真は死海で         浮かんだときのものです。         関東在住の団塊世代です。 鹿児島市には37歳まで  住んでおりました。      10代の中頃から、      エルヴィスとビートルズを  聴き初め、           いまだに聴いております。
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2007年08月28日

1982年(Ⅵ)

私が昭和55年の秋、結婚して家を出、弟が昭和56年春結婚して家を出た。

ある日、東坂元へ寄ったらお袋1人だった。
庭に出て、両側の山に挟まれている海をみていたら、
いつの間にか、お袋が後ろに立っていた。

庭を指さして、ここに家を建てて一緒に住まないかと言った。
私はもうチョット待ってくれ、と言ったらお袋は黙っていた。
その後、2ヶ月位経った頃だっただろうか。
もう1回お袋に同居を頼まれたが、そのときも同じ返事をした。

その頃の私の考えは、同居の時期としては、
両親に孫の顔を見てもらえるようになった時がベストだと思っていた。

あまり出歩くことのなかったお袋だったが、
晩年は親父のうしろについて歩くようになった。

武岡墓地の上り坂は弱った心臓には、こたえただろう。
東坂元の上り坂も苦しい胸がドキドキしただろう。

健康な者にとっては足腰を鍛える良い運動でも、心臓の病には逆効果である。
高台で坂道の多い、東坂元へ引っ越したのは間違っていた。
お袋の死期を早めた。私はそう思った。

人は誰でも生まれ落ちた瞬間から、死へ向かってまっしぐらに歩いて行く。
現在、地球上で生活している人々も100年後は99%が生存していないだろう。
150年後は、完全に入れ替わっている。

太陽も一つの燃料だ。いつか燃え尽きる時がくる。
その後はどうなる。地球に他の大きな星が、ぶつかったらどうなる。

未来永劫、不変なものは時間と空間であると、何かの本で読んだことがある。

問題は死に方だ。
健康診断で見つかった病気が、手遅れの末期ガンだったら諦めもつく。
心臓の病が見つかった以降、
家族でいたわり、無理をしないように、気をつけてきた結果だったら仕方がない。

お袋は、どう考えても天寿を全うしたとは思えなかった。

仕事を終えて夜家への帰り道感じる。
あれだけ、東坂元に一緒に住んで欲しいと言った、
お袋の待っていない、その東坂元に帰る空しさ辛さ。

お袋の心臓の病を知らなかった。
この事が、喉に刺さった魚の骨みたいに私を苦しめた。

いくら胃液を出して、胃が蠕動運動しても、お袋の心臓の病を知らなかった。
この事は消化出来なかった。

私は親父に話した。どこか家を建てて引っ越そうかと。
谷山地区に土地を探し新築、引っ越しのイメージを描いていた。

親父は黙って聞いていたが、東坂元から動きたくないという顔をしていた。

数日して、弟から電話がきた。
親父が訪ねてきたらしい。自分が親父と東坂元に住むと言っていた。

この年の9月、私の家族に親父を含む4人で沖縄県、石垣島へ行った。
竹富島のきれいな海は、またいつの日にか、ゆっくり行ってみたいものである。

お袋と約束した東坂元暮らしだったが、
14ヶ月弱で我々親子3人は再び鴨池町へ帰った。
以前の古い家を壊し、新築の2階建てを建てて、昭和58年12月21日の事だった。

弟の家族と一緒だから何も心配はないが、
親父に対して申し訳ない、と言う気持ちを残して東坂元を去った。  

2007年08月26日

1982年(Ⅴ)

福岡から4人、宮崎から3人、東坂元から2人、真砂から2人。
皆、それぞれの場所から鴨池町の私の家を目指して集まってくれた。

刺身、雑煮、昆布巻き。かしわと人参ゴボウ大根の煮付け。ちらし寿司、
サラダ、それにロースハム、薩摩揚げ、サラミソーセージも大皿に盛ってある。
お腹の大きい女房を気遣い、皆で料理を2階にはこんでくれた。
コタツを2つ並べた食卓は、正月の匂いでいっぱいだ。

親父が年頭にあたり、教訓めいた話をしたあと、ビールとジュースで乾杯。

昭和57年は、こうして始まった。来年の正月は宮崎で集まろう。
その次は、福岡まで行こう。その次は、真砂でやろう。その次が、東坂元だ。

「福岡に出てきますからね」
「ハイ、どうぞ、どうぞ、待ってますょ」
食卓の上を片付け、帰り支度をしながら、お袋と兄嫁との会話である。

しかし、お袋は福岡どころか宮崎にも行けなかった。
私の家で迎えた正月が、お袋にとって最後の正月になった。

昭和57年7月7日の7の三並びの七夕の真夜中に、
初めての子になる長男を授かった。

産まれて2,3日過ぎた日の午前中、
桜ヶ丘にある鹿児島大学付属病院へ親父とお袋を、私の車に乗せて行った。

病棟の面会場所に、まだ目の見えない赤ん坊を
ガーゼみたいな白い布で、くるみ抱いて女房が、そろり、そろり、歩いてきた。

両親とは初めてのご対面である。
孫との対面が終わり東坂元へ送る途中、昼飯は 「末よし」 の鰻を食べにいった。
鰻はお袋の好物である。
私の長男のおかげで鰻を食べることができたと言って、座敷の上で喜んでくれた。

その年の夏は、宮崎の次兄が勉めている職場で、
保養契約している指宿市のホテルに、両親を一泊連れて行くことになっていた。

可愛い盛りの孫(次兄の長男)と初めての旅行である。
指折り待っていたはずだ。

ところが、残念ながら孫が風邪をひき当日、旅行中止になってしまったのだった。
さぞガッカリしただろうと思っていたが、「楽しかった」 と言っているのだ。

変なことを言うと思っている私に、話してくれた。
お袋は、旅行について考え想像したそうだ。
ホテルで皆と一緒に食べる夕食。そのテーブル上の料理の数々。
どんな部屋だろうか。大浴場は。翌朝の朝食。

いろいろ考え想像すると、
旅行を待っているあいだ毎日、楽しくて仕方がなかった。と言うのだ。

お袋は嫌みではなく本当に、こういう考え方のできる人だった。
それを聞き、そんなにお袋は旅行を楽しみにしていたのかと思った。

そういえば、家族でホテルに泊まる旅行はしたことがなかった。
来年夏はどこか連れて行こう。
お袋の実家近くにある、
市来町の国民宿舎へ宿泊の予定を決めていたが実現できない旅行になった。

昭和57年は鴨池町での新年会に始まり、9月、照国神社でのお宮参り、
12月、武岡墓地での納骨で終わった。  

2007年08月24日

1982年(Ⅳ)

10月中旬のある日、
いつものように病室に行くと、お袋がベッドの上に後ろ向き座っていた。
2人部屋の横ベッドのおばさんは、外出したのか病室にはお袋一人だった。

もう外は暗いのに、頭上の灯りが点いていなかった。
私の顔を見るといつも喜んでくれるのに、
その日はどうしたのか暗い中、背中を向けたままだった。

自分の病状を気にして沈んでいたのか、
それとも心細くて泣いていたのか、顔をこちらに向けてもくれなかった。

いつも笑顔を絶やさないお袋にしては珍しいことだっただけに、
今でも時折あの場面で見た、お袋の背中を思い出すことがある。

10月になって早々の頃の話だ。親父が一人で生活しているのが心配だと言った。
私は親父と同居する旨、即答した。

両親が住み始めて6年5ヶ月になる東坂元の住宅は、
私の家族が同居するには狭かった。

平屋の家を2階建てに増築して、間取りはああして、こうしてと言う、
私の話をベッドの中で終始、ニコニコ顔で聞いていた。
私とお袋のまともな会話は、これが最後だった。

両親と同居するつもりで、私の家族3人、10月29日に鴨池の家を後にした。
勤め先の住宅会社にいる建築士に、
本設計前のラフプランの図面を引いてもらった。
平屋を総2階にして、2階にも風呂、トイレ、台所、を設けた二世帯住宅にして、
我々3人は2階に住むようにした。

しかし、11月に暦が移ってからも、一向に病は快方に向かわない。
それどころか、仰向けに寝て、
目を閉じて、苦しそうに早い呼吸をしている姿しか、目にしなくなった。

自宅の庭から折って持って行った、
山茶花の小枝についているピンクの花びらを見る目に元気がない。

たまりかねて転院を勧めたことがあったが、お袋は首を横に振った。
もうそういう気力もなかったのかもしれない。

肘の内側も、手の甲も、点滴の針跡が痛々しい。
あの頃は、本当に祈るような気持ちで、毎日病室に通った。

親父には、色々食べたい物を言ったらしい。
買って持っていっても、ほとんど口にできなかったらしい。
親父にスイカを食べたいと、言ったことがあったそうだ。
時期はずれで買えなかったと言っていたが、ハウス物は一年中出回っている。
果物屋さんに注文して、食べさせてやりたかった。

11月17日見舞ったときは、仰向けの苦しそうな息づかいではなく、
背中を向け横向きで、呼吸もスースーと楽そうに寝ていた。
起こさないように、そっとドアを閉め、これで峠を越えたなと思いながら階段をおりた。

まさかあれが、お袋の見納めになるとも知らないで。  

2007年08月22日

1982年(Ⅲ)

照国神社の一つ葉の木の前で、親父、お袋、女房、長男が写っている写真がある。
長男の一ヶ月遅れの、お宮参りの時のものだ。

これが生前の、お袋を写した最後の写真になってしまうとは、
ファインダーを覗いてシャッターを押す私は、夢にも思わなかった。
亡くなる72日前の、昭和57年9月7日のことである。

お祓いを終えて昼食は、城山観光ホテルで中華料理を食べた。
今になって思えば、5人で本当に楽しい食事だった。

その後、10日間位経った頃、お袋が風邪を引いたと電話があった。
長男にうつるといけないので、自宅には来ないように親父は言った。

9月27日の昼前、お袋の様子を見に行って驚いた。
大竜町にある病院から帰ってきたばっかりで、
着替えもせず奥の部屋に一人座り込んで、咳が止まらないようす。
話をするのも苦しそうに、肩で息をして熱のある赤い顔をしていた。

訊いたら、バスで病院の往復をして、
バス停からは上り坂道を歩いて帰ってきたそうだ。
背広のポケットを探ったら千円札が9枚あった。
明日はタクシーで病院へ行くようにと、
それをお袋に渡したら泣いて感謝してくれた。

夜、親父に電話して入院をした方がいいのではと話した。
空きベッドの都合で、9月29日に入院日が決まった。
お袋の読みそうな週刊誌を片手に、
夕方病院へ行ったら2日前と違って少し顔色がよくなっていた。

鴨池町の家に帰ってから、親父と電話で話した。
その時の電話で、
お袋は以前の健康診断で心臓肥大が見つかっていたことを聞いた。
初めて聞く話だった。

受話器を置いてから、それだと入院する病院が違っているのではないかと思った。
風邪をこじらせただけだと思って、大事をとって入院を勧めたつもりだったが。
せめて、入院する前に聞きたかった。

それにしてもなぜ、お袋はそんな大事な事を自分の子供に話してくれないのか。
そんなに頼りないのか。心配をかけまいと考えていたのか。
経済的負担をかけまいと考えたのか。
入院治療費等、子供が4人もいるではないか。四等分すればたいしたことはない。
そのために働き、家族の病気に備え貯金もするはずだ。
母親の病にお金を使わず、いつ何に使えと言うのか。

一定額を超える医療費には補助もある。道はいくらでもあるではないか。
せっかく病気を見つけたのに、これではいったい何のための健康診断か。

自分の親の心配を子供がせずに、いったいどこの誰がしてくれると言うのだろう。
誰でも頭が痛い。目が疲れた。歯が痛い。肩がこった。胃が痛い。腰が痛い。
尿の出が悪い。膝が痛い。便秘が酷い。痔が・・・。自然と口にでるものである。

人に言っても自分の痛み悩み苦しみがなくなるわけはないが、
私のまわりでも友人知人のそう言う話を耳にする。

「喜びは1人に話したら2倍、もう1人に話したら3倍、悲しみは1人に話したら半分、
もう1人に話したら3分の1になって分かち合えるものですよ」 と、小学6年生のとき、
担任の西先生が言っていた。

お袋も本当は回りにいる者。とくに我が子に息苦しい。動悸がする。胸が苦しい。
健康診断で心臓肥大と、冠状動脈硬化症が見つかった、等相談し、
また悩みを聞いて欲しかったのではないか。

体に2つある臓器、肺、腎臓、睾丸、は片方失っても生きて行ける。
肝臓も生体肝移植があるように一部切り取ってもいいが、心臓はいけない。
予備のない、たった1つのポンプである。命と直結している。
心臓に病を持って、不安がないわけがない。
今からでも、心臓の専門医に診てもらった方がいいのでは。

その夜は、寝床に横になってからも、色々考えてなかなか寝付けなかった。

もう心臓に負担のかかる上り坂道は歩かせられない。
高台の家は引っ越した方がいい。それには時間がかかる。
とりあえず同居しよう。そんなことを考えながら寝入っていた。  

2007年08月20日

1982年(Ⅱ)

お袋にあいそをつかされて、もう二度と手の届かない所へ逃げられた。

止まらない涙の中で、なぜかそんなことを考えていた。
とにかく、お袋を連れて帰らなければ。
病院の公衆電話から、自宅の女房に電話をした。
「お袋が死んだ」 と言ったら、受話器から 「ウソでしょう」 と返ってきた。

棺桶を担いで自宅へ入るとき、又こみ上げてきた。
僅か50日前に自宅を出るときは、元気になって帰ってくるつもりだっただろうに。

床の間には、女房が北枕の布団を敷いてくれていた。
親父が台所に置いてある目覚まし時計を見て、ビックリしていた。
午後2時56分で、止まっていた。お袋の死亡時間と、ほぼ一致していた。
無宗教で魂の存在を信じない私だが、
このときは医者の書いた死亡診断書の死亡時間が間違っており、
むしろ、この目覚まし時計の針先が指している時間に、亡くなったと私には思えた。

死亡診断書に書いてある死亡時間は、午後2時55分で、
発病年月日が9月1日になっていて、直接死因は急性心臓麻痺。
急性心臓麻痺の原因は心不全。
心不全の原因は、心臓肥大症兼冠状動脈硬化症と書いてあった。

入院時に、急性肺炎を起こしていたとも書いてあった。
お袋が入院したあと、部屋に転がっていた、
40度を超える目盛りの体温計が、目に浮かぶ。

次の日が葬式だった。
坊主と葬儀社の人の手順どおりに式は進み、もう霊柩車が待機している。

いよいよ、棺桶の蓋を釘で打ちつけなければならない。
弟嫁が、生前めったにつけることのなかった、お袋の唇に口紅を引き、
死化粧をしてくれた。

長兄が最後の別れをし、次兄がそのあとに続いた。
私の順番がきた。死んだとは言え、まだ今までは顔を見ることができたが、
あと数分したら、もうそれもできない。

誰にとっても、幾つになっても、母親は世界一である。
お袋にはいろんな物をもらった。先ずこの世に生んでもらい命をもらった。
その後、32年間にわたり数え切れないくらいの愛情を注いでくれた。
私のすべてを受け入れてくれた、お袋だった。

「子を持って、始めて知った、親の恩」 と言うが
その年の7月に私も長男に恵まれたばかり。
長男を可愛がってもらう矢先であった。

柩の中の額に、左手を置いてみた。ビックリするほど冷たい。

「お母さん、ゴメンなぁー」 と言うつもりが、言葉にならない。

霊柩車はクラクションを響かせ、靜に自宅をあとにした。
唐湊の火葬場に着いて遺体を焼く前に、火葬場の係の人が、
我々に焼却の確認をした。焼却前に遺族に確認をするようになっていたのだろうか。
その返事が、どうしてもできない。ようやく、長兄が頼んでくれた。

焼き上がった骨は白く、くずれていた。
余熱で熱い骨を、箸で拾い骨壺には目一杯詰め、喉仏を上に置き蓋をした。

お袋が亡くなって数日後、病院から親父に電話があったらしい。
ベッドの後かたづけしていたら、
敷布団の下から写真が出てきたから、取りにくるようにと。

お袋の父親、金治のセピア色に変色した、顔写真だった。
お袋は、どんな気持ちで父親の写真を敷き布団下に、しのばせたのだろうか。

納骨は12月の下旬。
昭和57年は終わろうとしていた。
長年住み慣れた武町経由で、武岡墓地へ向かったのであった。  

2007年08月18日

1982年

ここがバスの終点だ。

なんてへんぴな所だろう。
山の中腹から上は、薄い霧に覆われて山頂は望めない。初めて見る風景である。
とても人が住んでいるとは思えない。仙人部落でもありそうな山奥だ。

オンボロバスの乗客は私一人。
それにしても、どうしてこんな所に来てしまったのだろう。
乗ってきたバスは昔懐かしい、ボンネットバスであった。
ボンネットバスは停留所に停車して乗客を待っているが、辺りに人の気配はない。

さて、これからどうしょうかと思っていると、前方に延びている未舗装の山道を、
こちらに向かって女の人が歩いてくるではないか。

「アッ、お母さん」
なんと、お袋ではないか。
見覚えのある茶色っぽい地味な服を着ている。靴も茶色だ。
しかし、なぜこんな所にと走り寄って声をかけた私に、顔の前で手を左右にして
「違う。私はあなたの母親ではない」 と言う。

そんなバカな。どこからどう見ても、私のお袋なのに。
どうしてそんなことを言うのだろうか。釈然としない私を残して、今来た道を
山の方へ帰りかけた。まだ会話を続けたい。まだ話は終わっていないではないか。

「チョット待ってくれ」

ここで目が覚めた。お袋が亡くなってもうすぐ半年が経つ。
その間夢でもいいから会いたいと思っていたが、
初めてみた夢で親子関係を否定されたみたいで、なんとも複雑な寝覚めである。


昭和57年11月18日、朝いつものように自宅を出、加治屋町の会社に出勤した。

だいぶ長くなった髪の毛が気になっていた私は、
午後から二中通りのセイカスポーツセンター前にある、
いきつけの床屋でサッパリしたあと、ついこの前まで住んでいた、
まだ所帯道具がほとんど置いてある鴨池町の誰も住んでいない家へ行き、
2階へ上がり腰を下ろすと同時に、電話のベルが鳴った。

福岡の義姉の声だ。お袋の容態が悪い旨、親父から電話をもらったとのこと。
10秒間話を聞いただろうか。

月極賃貸駐車場まで急な下り坂を100M走り、
高麗通りを西田橋へ向けて車を飛ばした。

昨日見舞ったときはこちらに背中を向けて、横向きに寝ていた。
それまでは、いつも仰向けで苦しそうな息をしていたので、
その横向きが少し楽そうに見えた。

それなのに、親父が福岡に住む長兄の所に電話をして、義姉が電話をしてきた。
それだけでただならぬことだ。

病院の駐車場へ車を置き、階段を駆け上がって、病室のノブを回した。

弟が涙を流しながら、お袋の心臓マッサージをしていた。私はお袋の顔をみた。
「アー、駄目だ」 弟もあきらめて、まだ温かいお袋の体から手を離した。

そのときは、もう医者も看護婦もいなくて、
親父も電話連絡のためだろうか見あたらない。

そこには弟と私、それにもう動かなくなったお袋がいた。