< 2007年07>
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
プロフィール
gonngoetsu
gonngoetsu
写真は死海で浮かんだときのものです。関東在住の団塊世代です。
鹿児島市には37歳まで住んでおりました。10代の中頃から、エルヴィスとビートルズを聴き初め、いまだに聴いております。
オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 11人
アクセスカウンタ
QRコード
QRCODE

スポンサーサイト

上記の広告は90日以上記事の更新がないブログに表示されます。新しい記事を書くことで、こちらの広告が消せます。

  

Posted by チェスト at

2007年07月31日

中学2年生

1963年

中学2年生の時の担任は松永先生。
天然パーマの髪が特徴で、ベートーベンと呼ばれていた。

松永先生は次兄も受け持たれており、成績の良かった次兄は可愛がられた。
その影響か、私にも何かと目をかけてくれた。
先生には、17年後結婚式の仲人をしてもらった。

武中学校は武小学校と同じ敷地の上荒田町にあったが、
武岡南側の山を切り土して新築校舎ができた。

引っ越し当日は生徒が旧校舎から机、椅子を持ち
蟻の行列のように新校舎まで歩いた。

前年の9月にデビューしたビートルズは、この年も快調にヒット曲を飛ばした。

I SAW HER STANDING THEREANNA. CHAINS.
DO YOU WANT TO KNOW A SECRET. A TASTE OF HONEY.
THERE'S A PLACETWIST AND SHOUTMISERYBABY IT'S YOU
FROM ME TO YOU. SHE LOVES YOUI'LL GET YOU
DEVIL IN HER HEART. IT WON'T BE LONGALL MY LOVING
TILL THERE WAS YOU. PLEASE MISTER POSTMAN
ALL I'VE GOT TO DO. NOT A SECOND TIME.
I WANT TO HOLD YOUR HANDTHIS BOY. (録音順)

ラジオからビートルズの曲が流れない日はなかった。

多感な年代の時期に、ビートルズをリアルタイムで聴けた団塊世代としては、
この幸運に感謝しなければならない。  


Posted by gonngoetsu at 00:01Comments(2)自分史(高校卒業迄)

2007年07月29日

中学1年生

1962年

中学3年生の次兄は受験を控えているということで、
家の手伝いは主に私の役目となった。

五右衛門風呂に水を入れ風呂釜焚き。水を入れたバケツの中に豆腐を入れ、
その重たいバケツを片手にもち、もう片手で自転車のハンドルを握り
仕入れに行ったり、牛乳瓶、ジュース瓶も自転車で籠に入れ仕入れに行った。

時には疲れたお袋が30分でいいから店番をしてくれないかと私に頼む。
お袋が家事の水仕事をしているときとか、便所に入っているときにかぎって
「ごめんください」とくる客が待っているとなかなかこないものである。

味噌は味噌樽からメシゲを使い薄板で包み量り売りしていた。
豆腐は大きめのバケツの中に沈んでいた。
バケツにはホースの先を入れ水がほんの少しづつ出しっぱなしにしてあった。
そうしないと豆腐はすぐ腐るそうだ。豆腐は一丁の半分売りもしていた。
掌にのせた豆腐を包丁で切る。
お客さんはどちらが大きいかジーッと包丁の動きと半分になる豆腐を見ている。
人のする事だ。機械みたいにはいかない。どうしても大小の差がでる。
一応どちらがいいかお客さんにきいてみるとどちらでもいいと言う。
大きい方を薄板で包み、お客さんの買い物籠の中に入れてあげる。
一丁15円の豆腐が半丁8円になる。2×8=16で1円余分にもうかる。

豆腐の横にはイモコンニャクと糸コンニャクが白いのと黒いのが沈んでいた。
一升瓶のラベルは二菱醤油、タカラソース、福山酢、食用油が並んでおり、
柄の付いた木製の枡で量り売りもしていた。
お客は自分で適当な大きさの空き瓶をもってきていた。
一合升に液体を入れ、それを漏斗で空き瓶に流し込んでいた。

食料品を陳列してあるガラス戸棚があったが、その脚は小皿の中に立ててあり
その小皿には少量の水が入れてあった。店の床は土間だったので
蟻がガラス戸棚の内部に入り込めないようにしてあったのだ。
ハエが飛び回っていた頃なので、店にハエ取り紙とハエたたきは必需品だった。

中学1年生になって高校受験に向けて机に向かってみても、
小学校の頃から勉強をする習慣が身についていなかったので、
基礎ができていないこともあり教科書を理解できない。
どこからどう進めていったら良いのか、勉強のやり方が分からないのだ。
20分机の前にいただけでイライラしてくる。

それに対して次兄は違っていた。
小学校から中学校まで級長をやり、ガリ勉をするわけでもないのに、
中学校の成績は600人中シングル。通知票は5段階評価の5が8割。
私はというと通知票は5段階評価の3が8割。
通知票は学校での行い、本人の性格、人格まで評価してあり
次兄はこれも文句なしだった。2つ違いの次兄とはなにかにつけ比較されてきたが
まさに「愚弟賢兄」を絵に描いたような違いだった。

当時、鹿児島市内の公立進学校は鶴丸、甲南、玉竜、
それに開校予定の中央高校が第一期生を募集するという状況だった。

武中で学年の成績が一桁であれば小松原にあるラサール高校も
射程距離にあったが、次兄は隼人に開校したばかりの国立高専を選んだ。

この頃から次兄の影響で、アメリカンポップスを聴くようになった。
パティ・ページ、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ポール・アンカが
真空管式の大きなラジオからよく流れていた。

本年の9月にビートルズの記念すべき
デビュー曲 LOVE ME DO が録音された。
第2弾 P.S. I LOVE YOU 。
第3段 ASK ME WHY
第4弾 PLEASE PLEASE ME。

それまで聴いたことがない衝撃的な音楽だった。  


Posted by gonngoetsu at 00:09Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月27日

武中学校

1962年

中学1年生の時の担任は、新婚ホヤホヤの河東先生。

入学記念に写っている女生徒の中に、R子さんがいた。
上品そうで、おとなしく、清潔感があり、
広いおでこに鼻筋がとおった外人みたいな顔立ちは女生徒の中では目立っていた。

授業が終わって休み時間になると、それぞれ気のあった者どおし集まって、
お喋りを始めるがR子さんは席を動かない。
次の科目教科書とノートを机の上に出し、靜に自習をしていた。

大運動会、晴れ渡った秋空の下に万国旗がはためきメガホンみたいな形をした
水色のスピーカーからは、アメリカンパトロールが流れている。

1年女子徒競走、黒くて膨らんだ提灯ブルマーが横一列に並ぶ。
ヨーイ・ドン。R子さんは一番最後を走ってきた。

この頃Gパンが流行った。親父にGパンをねだったが駄目だと言う。
あんなズボンは不良が履く物だと言っている。
そこをなんとか食い下がったら条件付で許可がでた。その条件とは。
青色のGパンは不良が履くから駄目であるが、学生服と同じ黒色、
黒色のGパンなら買ってやると言うことだった。青色でなければ
Gパンではないような気がしたが、それ以上親父を説得するのは無理だった。

反抗期で生意気盛りだったのだろう。
朝学校へ出かける前のこと、親父になにか口答えしたのだろう。
ホッペタを叩かれたことがあった。
悔しさに朝飯を食べずに手提げの学生カバンを持って家を飛び出した。
あとから弟が心配顔で、
お袋が作ってくれた弁当を持って走り追っかけてきたことがあった。

スパルタ教育と言う言葉があるが、
私の場合は未熟者のせいかなかなか感情を抑えて人を叩くのは難しい。
馬の手綱を引いて強引に水飲み場に連れてくることはできても
無理やり飲ますことはできない。
ましてや相手は子供とはいえ人間である。童話で太陽と北風のたとえ話もある。
桃栗三年柿八年。苗木を育てるにも時間がかかる。
子育てに結論を急いでは子供が可哀相である。

焦らずに気長に繰り返し、繰り返し太陽光線を当ててやり、
自分から外套を脱ぐように仕向けるしか方法はないのではと私は思っている。  


Posted by gonngoetsu at 00:07Comments(2)自分史(高校卒業迄)

2007年07月25日

小学6年生

1961年

女子だけが教室に残され先生の話があった。
なぜ男子は教室から出されたのか授業内容が気になったものだ。
お目出度い話。赤飯を炊く話があったのだろう。

折角の共学だから、こういう授業は男女一緒に受けるべきではなかったのか。
それぞれの違いを教えないのは片手落ちではないか。
男子はほったらかしで良かったのか。

女子中学生が、女子高校生が、妊娠出産し、我が子を殺す事件が相次いでいる。
女子中学生、女子高校生が批判されるが、一人で妊娠はできない。
相手の男子中学生、男子高校生は事件の陰に隠れているが、それでいいのか。

この年代から男女の別なく、避妊、性感染症も含め命の大切さを
しっかり教えることは、算数や漢字の勉強以前の、人として生きるうえで
必要なのに、ことなかれ主義の教育行政では性教育は全く機能していなかった。

こういう話に奥手だったのでほとんど知識を持っていなかった私は、
夢の中で発射したときは何がなんだか分からず困ったものだ。
カルピス原液が粘度を増し白濁したようなヌルヌル、ベトッリを初めて見たときは、
自分は何かとんでもない病気になったのではないかと心配したものだった。

最近キレル子が多いと問題になっている。
カルシウムが不足すると怒りやすくなるそうだ。それも1つの理由かもしれないが、
むしろカキ方を怠ると怒りっぽくなり、キレやすくなるのではないかと思う。

これから将来あるカゴッマの若ニセ衆にいかにカクかをアドバイスをしたい。
基本的にはブログを書くのと同じでいい。
毎日でも体が続けばそれでもいいし。中三日でもいいし。週一でもいいし。
月一でもいい。年一は少なすぎ。将来嫁さんに逃げられる。

欲望は男女を問わず誰でもあるのが正常だ。
要は欲望を上手にコントロールすることだ。

「ミニにタコ・田代まさし氏」にしても「ミラーマン・植草教授」にしても
小さいときからのカキかたの訓練ができていなかったのではないだろうかと思う。
事件前一カキし自分をコントロールしておれば起こらなかった
防げる犯罪ではなかったのか。

事件前は興奮し一物も直立不動のキオツケをしていたはずである。
一カキしたらキオツケからヤスメにシフトでき
あのような事件を起こさなくても済んだはずだ。

性犯罪者が事件を起こす際は
自分で自分をコントロールできなくて事件を起こしている。
そう言う自分の家族や被害者及び被害者家族を泣かす事件はカキかたの
訓練ができており事件の前に一カキすれば大部分は起こっていないと思う。

大勢の女児、少女を暴走する男の危険から守りたい。

それには夢の中での発射する年代から正確でいい情報を
子供たちに与えてあげることが必要なことではないか。

この問題では寝た子を起こすなと言う意見が必ずでる。
しかし最近は鉛筆も自分で削れないような子もいるらしい。
すべてに個人差があるので器用な子に合わすのではなく
不器用な子に合わせて情報を提供し教えることが大事だと思う。
隠すことはかえって将来に歪みがくる。

高校の担任がカキ方についてちょっと触れたことがあった。
そういう気持ちになったら運動をして青春を燃やせみたいな事を言った。
カク事は悪であるみたいな。
そんなものだろうか。
男なら経験あると思うが疲労困憊していても一物はキオツケするものである。
体の疲労と一物の疲労とは別の指揮系統のようだ。

そもそも教師自身がカキかき方の訓練ができておらず知らないようだ。
独身教師が電車の中で下半身を露出行為。
妻子を抱えた教師が独身女教師をストーカー行為。
あの善良な先生が教室という密室内で女生徒の下半身に触れる。
校長先生が一物をキオツケさせ教え子のスカートの中に手を入れる。

教師の性犯罪は表にでただけで新聞紙面に氾濫している。
隠れた事例は五万とあるはずだ。私も中学生のときに
教師が女生徒にセクハラまがいのことをしているのを目撃したことかある。

生徒に教えるどころではないのか。
指導要綱にはそう言うことを教える項目がないので。と言うことだろうか。

教師が教える技量がないとしたら、
その年代の男子を持った母親がカキ方を教えるのか。
親子とは言え射精経験のない異性では無理な話だ。それでは父親か。
セガレを前にして「良いカキかたとはな・・・・」。これも照れがある。

その結果がほったらかし。
アダルトサイトにまぐれ込んで、歪んだ情報を真に受けかねない。
モヤモヤし交感神経が興奮してきたらカクことだ。
この年代の子を持ったお母さん方も息子の机引き出し内で
ヌード写真を見つけたくらいで驚かないで欲しい。

幼い頃あんなに愛らしくあどけない瞳をしていた可愛い私のボクちゃんが
なぜこんな汚らわしい卑猥な写真を。と狼狽え、動揺しないで欲しい。
むしろ子孫繁栄に繋がる息子のムスコの成長を喜んで欲しい。

松茸ご飯を炊いて精通を祝ってあげて欲しいくらいだ。  


Posted by gonngoetsu at 00:05Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月23日

小学5年生

1960年

小学5年生と6年生の時の担任は西先生。
西先生には後年弟も受けもってもらった。

「鶴乃子」が食卓の上に置いてあった。長兄が福岡から帰省してきたのだ。
長兄の趣味は登山だった。帰省中に霧島へ行と言っている。

次兄も一緒に行くらしい。
ひょっとしたら私も連れて行ってもらえるかも。
長兄の回りをウロウロするが、そういう話が出てこない。

当日の朝、長兄と次兄の後ろ姿が見えなくなるまで自宅の前で見送った。

同級生に施設から登校してくる子がいた。
外は雪がちらつく暖房のない手足のかじかむ教室で1人だけ靴下を履いていない。

彩り鮮やかな私服の皆の中でいつもくたびれた学生服を着ていた。
いくら寒くてもその学生服下にセーターを着てこなかった。

下着類は自分で洗うのだろうかアカギレで手にヒビがあったりしていた。
  


Posted by gonngoetsu at 00:03Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月21日

7ツ島


48年前の、小学4年生の遠足で7ツ島での記念写真です。
昔は「ナナッガジマ」と言ったものでした。

現在は島の横を車で走行できますが、
当時は舟で行くか、泳がないと島へは行けませんでした。

ここはいい海水浴場で、中学生の時、西駅裏から自転車をこいで
タンニャマのここまで泳ぎにきたことがあります。

1959年

小学4年生の時の担任は書道では有名な当房先生。
先生の家玄関には達筆な漢文の掛け軸が掛けてあった。
めったに笑わない厳しい先生だった。

我が家がテレビを買ったのはこの頃だった。選局はNHKと民放MBCだけ。
チャンネルは手でグルグル回して合わすようになっていて、取り外しできる
50㎝位の足が、4本付いていた。
スイッチを切った時はブラウン管を覆う上等の布まで付いている、
三菱電機製の14インチテレビが学校から帰ってくると畳の上に置いてあった。

これより2年ほど前、親父に連れられ西駅待合室でプロレスを観たことがある。
初めてテレビを観たのはあのときである。

回りは大人の人垣で親父に抱き上げてもらわないと遠くにある白黒画面の
力道山は見えない。西駅待合室はザワザワしており音声はなにを言っているのか
全く分からない。あれが最初のテレビ体験だった。

金曜日の夜、床屋入り口の外に立って中の様子を窺う。
チャンネルがプロレスに合わせてあるとガラス越しに音声は想像しながら
ミスター珍や豊登の動きを目で追った。

緒方八百屋がテレビを買ったと言う情報が子供達のあいだでかけめぐった。
次の日から15日間大相撲の若乃花を観に通ったものだ。

有川さんの家では毎週日曜日の夜「月光仮面」を見せてもらった。
夕食時に近所の子がドカドカ押しかけるのだ。
押しかけられる方はたまったものではなかっただろう。

弟が画面を見ながら寝入ったことがあった。
正義の味方月光仮面と悪者ドクロ仮面との戦いが始まっているのに起きない。
ゆすってみても夢の中。

番組が終わってから有川さんのお兄さんが弟を抱いて
我が家まで連れてきてくれたことがあった。

毎日同じ家に押しかけるのは子供心にも気がひける。
時には溝之上さんの家で「お笑い三人組」を見せてもらった。

西駅待合室から近所の床屋、緒方八百屋、溝之上さん、有川さん
だんだんテレビが我が家に近づいてきて遂に自分の手でチャンネルを回したり、
音を大きくしたり、寝転がってテレビを見られる喜びは相当なものだった。
テレビを買った親父が大きく見えた。

それから数日後、毎日夕食時になると招かざる客がやってきた。
「テレビを見せてください」

食卓のご馳走はなんと言ってもカレーライス。
皿をご飯で山盛りにしルーをかけそれにソースをかけて食べていた。
よく食べたのは鯖。親父が朝市から買ってきた新鮮な鯖を三枚におろし
刺身、しめ鯖、天ぷら、味噌煮、醤油漬けして鯖焼き。
鰯の丸干し、鯵のひらき、秋刀魚も焼いてよく食べた。
牡蠣の炊き込みご飯は好物だった。

商っていた店で売れ残った薄揚げで作ってくれた大きないなり寿司も美味しかった。
豆腐が売れ残った日の夕食は分かるようになった。湯豆腐だった。

夏休みになると次兄と市営プールに行った。
鉄道管理局の敷地を抜けて近道をすると家から歩いて5分とかからない。

鴨池海水浴場であった花火大会は鉄道線路脇にある鉄道管理局保線区の
2階建て建物の屋上に近所の子供達と一緒に見に行った。
屋上は近所の子供達で一杯だった。  


Posted by gonngoetsu at 00:01Comments(5)自分史(高校卒業迄)

2007年07月19日

小学3年生

1958年

担任は遠矢先生。二枚目の先生だった。

私が24才の頃、南日本新聞紙上で遠矢先生の名前を見つけた。
営業広告欄にあった。新照院町で金融業を経営していた。

その後も度々新聞紙上で広告を見かけた。
広告は派手になり傍目にも好業績がうかがえた。
数年後、南日本新聞紙上で遠矢先生の名前を見つけた。
今度は死亡広告欄にあった。

「ナット、ナット、ナットーォ」
昭和33年当時の朝は納豆売りが売り声をかけ、
昼からも色々な売り声が聞こえてきた。

金魚売りが撓んだ天秤棒の前と後ろに金魚を泳がせて歩いていた。
竿竹売りも竿を肩に担いで、良くとおる声を響かせていた。
傘修理、包丁研ぎ、鋸目立て、穴の空いた鍋修理。

夕方になると、採れたての野菜を犬に繋いだリヤカーに積んだ太ったおばさんが
やってきた。野菜売りのおばさんが帰る頃になると、
各家の煙突から煙が立ち上ったものだ。

我が家にも竈と風呂の2本の煙突が立っていた。
定期的に煙突掃除のおじさんが、煙突内に付着するススの掃除にきていた。

屑鉄拾いのリヤカーも重そうに車輪を回していた。
ときどき野良犬を捕獲する自動車がやってきた。トラックの荷台に鉄製の檻を積み、
犬の色々な鳴き声を辺りにまき散らしながらやってきた。
針金で輪を作ったのを先につけた棒を持っていた。

大人が3人がかりで首輪のない野良犬を追い詰めるのだ。標的になった犬は
尻尾を丸め悲鳴に近い鳴き声を上げて逃げ回る。
捕まった犬の運命を知っているだけに、
上手く犬が逃げたときはホッとしたものだった。

「♪冨士の白雪きゃノーエ、冨士の白雪きゃノーエ・・・・」
今日は親父の勤め先の慰安会だ。

貸し切りの林田バスは先程、霧島のえびの高原に着いて
早くも原っぱにゴザを敷き宴会が始まった。
朱塗り三段重ねの重箱を包んでいる風呂敷包みを解いて、
兄弟3人で巻き寿司や蒲鉾を食べる。
親父は宴会の後行われる運動会の幹事役で忙しそうに動いている。

「♪酒飲むな、酒飲むな、のを御意見なれえどおぉ、ヨイヨイ・・・」
宴席での歌声を口ずさむと、あの秋の日の、えびの高原が思い出される。

国鉄の時刻表みたいに正確な親父の帰りが、今日はいつもより遅い。残業らしい。
キキーキーッ。自転車のブレーキ音がした。ブレーキの音で親父の自転車か、
その他の自転車かの判断がつくのだ。「おかえりなさい」家族皆でむかえる。

今日は何のおみやげがあるか楽しみに待っていたのだ。
残業時に会社ででる茶菓子を自分は食べずに、
子供達に持ち帰ってくれる親父だった。小さなおこしと一切れの羊羹、
ミルキーキャラメル、それにバナナが1本あった。

なんと言ってもメインはバナナである。1本のバナナを包丁で慎重に五等分して
ジャンケンでバナナの一片を取る順番を決める。
当時はそれくらいバナナは貴重品だった。
1回でいいから1人でバナナを1本丸ごと食べてみたいと思っていた。

外側は白くてフカフカしている中に黄色いアンコみたいな物が入っているお菓子
「鶴乃子」が食卓の上に置いてある。箱は四角形ではなく卵形をしている。
今日は長兄が小倉から帰省してきたのだ。乗り物疲れなのか昼間から寝ている。

おみやげがあった。グローブだった。黒に近い焦げ茶だ。
次兄のグローブは茶色だった。
皮に塗るワックスまで丸くて平べったい容器に入っていた。

私は左利きだが右利き用のグローブだった。
それでも嬉しくて、夜は布団の中でグローブを抱いて寝た。

またある時、長兄が「鶴乃子」を持って帰省してきた。
茶色い皮ケースに入ったトランジスターラジオと寝袋を持ってきていた。
寝袋が珍しかった私は
その日の夜は、寝袋の中でトランジスターラジオを聞きながら寝た。  


Posted by gonngoetsu at 00:09Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月17日

墓参りⅡ

1957年

墓参り2日目にアブラゼミの鳴き声を聞きながら行く串木野の暑い夏も思い出す。

金一叔父さんの家で
豆腐入りの柔らかくて美味しいツキアゲや、
たづ子叔母さんが揚げてくれたガネンテ(かき揚げ)、
冷ソーメンとスイカがまだ残っている食卓を後に
従兄弟の案内で狭い路地を抜けて近道をすると、もう目の前に海が広がる。
照島もすぐそこにある。

岩場におりて潮溜まりを覗くと青や黄色の縞模様をした小さい稚魚が泳いでいた。

岩はゴツゴツして所々に小さな穴があいている。
竈の灰が入っている空き缶に、20㎝位の竹筒を突っ込み竹筒の先に灰を詰め、
小さな穴に竹筒の先を入れ竹筒のもう片方を口にくわえ、一気に吹く。

穴の入り口から行き場を失った灰が吹き出してくる。
その後蛸が大慌てで出てくる。小さな一口蛸だ。
掴むと足の吸盤で腕に吸い付く。

あの蛸に吸い付かれた腕の感触が、幼い頃の串木野の思い出につながる。

地方巡業で照国神社へ来た大相撲を次兄、ひっちん、私の3人で観に行った。
徳之島出身で当時大関だった朝汐太郎もやってきた。

武町から照国神社までの歩きの途中にひっちんが前売り券を落としてしまい、
次兄が当日券を買ってやった。

幼馴染みのひっちん喧嘩をするとすぐ噛みつくひっちんが
両親に連れられ何処かへ引っ越して行ったのはこの頃だった。  


Posted by gonngoetsu at 00:07Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月15日

墓参り

1957年

親父は2日がかりで行く年2回の墓参りは毎年欠かさなかった。

大きな風呂敷包みを両手に持ち、弟、次兄、私を連れて朝早く西駅へ向かう。
風呂敷包みの中には、親類へ配る品々が包装紙に包まれ幾つも入っている。

歩いて西駅に行き高架になって線路を跨いでいる屋根付きの歩道橋から
ホームへ降りると、蒸気機関車が上からは真っ黒い煙をモクモク吐き出し、
下からは真っ白い水蒸気を勢いよく出している。

石炭の燃えるニオイを鼻で嗅ぎ、汽笛を耳で聞きながら鹿児島本線を北上すると、
線路の左右に広がる景色が一変する。

家々の屋根が瓦葺きから勾配がきつくて分厚い藁葺き屋根に変わってくる。
小さい藁葺き屋根は牛小屋だろう。冬の墓参りは正月の2日と3日になる。
家々の日の丸が、次々目に飛び込んでくる。

収穫の終わった田圃の切り株が、規則正しく並んでいる。
段々畑の土手も枯れて黄色くなっている。

墓参り初日は、日置郡永吉村にある海岸の松林の中にある墓へ行く。
伊集院駅で永吉駅までの切符を買い、国鉄から南薩鉄道に乗り換え乗り移る。
南薩鉄道車両は国鉄車両より一回り小さくなる。

永吉村の墓参りを終えたら次は、日置駅で降り米吉伯父さんの家へ向かう。
正月だからお年玉を出してくれるが、3人とも受け取らない。まず最初は遠慮する。
更に先方は、受け取れとのし袋を目の前に出す。
本当は欲しくてたまらないのに、それでも我慢して受け取らない。
先方がのし袋を手にして我々とのやり取りが続く。

頃合いをみて親父が
「それでは頂いておきなさい」と言う。すべて打合せどおりである。
前もって親父が我々に言って聞かすのだった。お年玉をもらうにあたっての心得を。
まず最初は遠慮して受け取るな。更に勧められてもまだ受け取るなと。

我々3人は忠実にそれを実行するのであった。
目の前に餌を置かれたお腹の空いた犬が、飼い主からお預けを言いわたされ
ヨダレを垂らしている状態の我々だった。
のし袋の中には100円札が1枚入っていた。

米吉伯父さんの家は行くのが実に楽しかった。
何が楽しいかと言うと、母屋の前庭の立ち木に山羊、ヒツジを繋いでいる。
裏庭には大きな鶏小屋があり鶏、チャボが羽をばたつかせている。
親豚子豚も数匹鼻を鳴らしている。

牛小屋に行くと牛の親子がいる。
大きい目でこちらを見ながら時々鼻の穴を自分の舌で舐めたりしている。
牛をこんなに近くで見るのは初めてだ。
牛が美味しそうに干し草を噛みつぶす音が耳に心地よい。
牛小屋に30分いても退屈しない。

7歳の私にとって、米吉伯父さんの家は動物園みたいだった。

昼食時に出してくれる自分の田圃で作ったお米を炊いたご飯が最高にうまい。
自宅でいつも食べているご飯とはあきらかに味が違っていた。
ご飯があんなに美味しい物だったとは、オカズなしで幾らでもお腹に入っていった。
  


Posted by gonngoetsu at 00:01Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月13日

カン蹴り

1957年

小学2年生当時の遊びは、

自転車の車輪を外して車輪からタイヤを外しリムだけにして
リムの凹み部に竹の棒をあてがい、回しながら走ったり、
釘立てと言って手に持った五寸釘を振り下ろし地面に立てて競ったり、
カン蹴り、陣取り、だごじゅう。

道路をほとんど車が通らないので道路が遊び場だった。

女の子は道路にゴザを敷き、ママゴト遊びをしていた。

男の子は尿意をもよおすと側溝に立ち小便をしたが、
女の子は尿意をもよおすと、お尻を出ししゃがんで側溝に向け放尿していた。

ちょっと大きな女の子になると、側溝を跨いで飛沫を飛ばす豪快な子もいた。
おおらかな時代であった。

当時の側溝は溝蓋がなく各家の出入り口はドブ板が渡してあるだけだった。

時には腰の曲がった婆さんまで着物の裾をヒョイと腰までまくり上げ、
手を膝に置き、中腰でお尻を側溝に向け黄色い孤を描いていたりもしていた。

道路の端に肥樽が2,3本置いてあったりもした。
水洗トイレのない時代だ。バキュームカーもたまにしか走っていなかった。
手押しのリヤカーで肥樽を移動していた。

たまに人の家の便所を借りたりすると、
チリ紙の代わりに新聞紙が適当な大きさに切りそろえて置いてあった。
新聞紙を手で十分もみ柔らかくして、お尻を拭くのだ。

便壺に落とすにも便壺の中の状況をよく把握せず、
不用意に落とすと大変なことになる。

溜まっている糞尿の水分含有量が問題だ。
ある程度水分が抜けていないゆるめの便壺に落としたら、
糞尿面から間髪を入れずにおつりが跳ね返ってくるのだ。

便壺の中ではハエの幼虫ウジ虫がうごめいていて、
新鮮でホカホカの温かいご馳走が上から落ちてくると
その回りに集まって黄色いご馳走が白色のウジ虫でたちまち盛り上がる。

便壺の横にはサナギから羽化したばっかりの連中が待機している姿が見える。

MBCラジオで瀬川洋一郎が話していたが、
昔は地方の農家に行くと
外便所がある裏庭に棒を2本立て荒縄が張ってあったそうだ。

使用方法は、
大きい方を出したあと荒縄を跨いで歩いたらしい。

別の地方の農家の外便所には小さな箱に砂が入れてあり、その砂に
糞ベラ(竹ベラで形状は竹とんぼの片方だけ羽がついていた様な物と想像できる)
がさしてあったらしい。

使用方法は、
大きい方を出したあと糞ベラで
菊の御紋についた雲古をなぜさすって綺麗にしたらしい。

昔の人も黄門様の作りは同じだったはずだ、痔主は大変だっただろう。
チリ紙のある時代に生まれて本当に良かった。

冬の便所は寒かった。
当時の家は布基礎ではなくて、束石に柱が乗っているだけなのだ。

今の家より床下の風通しが良かった。
床下に薪を置いたり床下で鶏を飼ったりしていた。

火の気のない便所にしゃがむとズボンを脱ぐだけでも寒いのに、
冷たい風が丸出しのお尻をなぜる。当時はお尻から風邪をひいたような気がする。

親父は庭で季節の野菜を作っていた。
肥料は勿論、自家調達の人糞である。畑の畝に鍬で溝を掘る。
便所の汲み取り口の蓋板を開け汲み取り柄杓を便壺に入れる。
ポタポタ糞尿滴を垂らしながら畝の溝に流し込む。

辺りに、さつま香水のワッゼェ臭いが立ち込める。

武町は一応住宅地であったが隣近所から苦情一つ来ない。そういう時代だった。
現在だったら大問題だろう。住宅地の庭に強烈な臭いのする黄金を撒き散らしたら。
苦情で役所の人が飛んでくるかもしれない。
一つの事件だ。
ハンカチで鼻を押さえた警察官がやって来て、事情聴取をするかもしれない

学校の野外学習で武岡へ行ったりすると、
子供のことだ。開放感に野原を走り回る。

間違って畑に足を踏み入れ、肥溜めにダイビングして
糞まみれになった可哀相なクサイ子を着衣からドロリと落ちてくる糞尿と臭いで
近づけずに、遠巻きに見ていたこともあった。

夏休みのラジオ体操は、眠い目を擦りながら次兄の後に追いて行った。
体操が終わったらカードに、ラジオ体操出席の印鑑を上級生に押してもらった。

娯楽の少ない頃だ。時には夕方の校庭に移動映画がやってきた。
大きなイカと潜水艦、それに土人がでてきた白黒のスクリーンが記憶にある。

家から持ってきたゴザを校庭に敷き、
座り込んで映画を観たのも楽しい思い出の一つである。  


Posted by gonngoetsu at 00:03Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月11日

ゴッババ

1957年

海釣りを初めてしたのは高校生になってからだった。

平川沖で、3人乗りのボートを漕ぎゴカイを餌にキスを釣る。
うまくキスが釣れたらいいが、底魚のゴッババに邪魔される。

ゴッババはどん欲な魚で、いくらでも釣れた。
ギョロ目で口が大きく、頭の後ろには大きなトゲを持ち体はヌルヌルしている。
ハゼ類の魚で、どちらかと言えば釣り師には嫌われ者の部類にいる。

小学2年生のときは女の斉藤先生。
小・中・高を通して、唯一受けもってもらった女先生だ。

あだ名は、ゴッババ。
かもし出す雰囲気や、外観がどことなく似ているのだ。薬師町辺りに住んでいた。

あの頃だろうか、我が家に初めて蛍光灯が点いたのは。
それまでは白傘の下に、白熱球(40Wか60W)の裸電球が店に1つ、台所に1つ、
四畳半に1つ、六畳間に1つ、便所にはピンポン球大の裸電球が点いていた。

蛍光灯が点いた瞬間は、家の中を昼間のように明るく感じた。

天井板が張ってなかったので畳に寝転がると
軒桁、小屋梁、小屋束、垂木、平木、母屋、棟木や桁、
梁に打ちつけてあるガイシに絡まっている電気の配線まで素通しの丸見えだった。

都市ガスやプロパンガス等のガス設備はなくて、台所は竈(かまど)で
マキや焚き木を燃料に、ご飯や味噌汁を煮炊きし、お釜の蓋は黒く焦げていた。

流しはコンクリート製で、流しの上にはバケツに水が汲み置いてあり、
バケツの上にはヒシャクが置いてあった。
喉が渇くと背伸びして、ヒシャクでバケツの水を汲んで飲んだ。

当時、風呂はまだ設置しておらず、夏はタライで行水をしていた。
秋口になって寒くなると、近くのみょうばん温泉へ行く。
みょうばん温泉の右となりには、下駄を売っている古村商店があり、
丸メガネのおじさんが丹前を着て座っていた。

便所は外扉から出入りし、高窓には手洗い用の水入れがぶら下がっていた。
瓦屋根の先に雨樋はまだ付いていなかった。

次兄が何回も捨て犬を拾ってきたが、親父に怒られ今度は
自分がその子犬を抱いて夕暮れの中、捨てに行ったのもこの頃だった。

親父の勤め先のトラックが家の前に止まった。
親父が知人から子供用の中古自転車を貰ってくれたのだった。
だいぶくたびれていたが一応ペンキで化粧直ししてあった。

当時は学校から帰ってくるとランドセルを放り投げ、
虫取りアミを手に持ち暗くなるまでシオカラトンボを追っかけていた。

トンボは池に卵を産みにくる。
池の周りをウロウロし、自宅前の付属小学校にあった池、
近所の酒匂さんの庭にあった池に足を滑らせ何度か頭から全身ずぶ濡れになった。

城西通りを流れていた用水路はドジョウがたくさんいたが、
石積みをコンクリートにしてからまったくいなくなった。

城西通は鉄筋を積んだ荷馬車が通ったりしていた。  


Posted by gonngoetsu at 00:03Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月09日

武小学校

1956年

桜の季節に上級生に手をひかれ教室に入った武小学校入学の日は
昭和31年4月のことだ。

入学式が終わった後、校門をでてすぐ左側にあった小さな駄菓子屋でお袋が
「なんでも買っていいよ」と言ってくれたことまで覚えている。

ハマグリの貝殻を紙のテープで帯状に巻いた物が売っていた。
貝殻の中には何が入っているのか興味があったのでそれを買ってもらった。
家への帰り道、紙のテープを破って貝殻を開けてみた。
中にはヤンモッ(トリモチ)が入っていた。

担任の先生は山下先生。背の高い男の先生だった。
講堂の中で学年全体の朝礼を始める前のことだ。
先生が注意をするが皆がなかなか靜にならない。

私は黙って前方をみていたが、後ろの家村君がポケットに手を入れてきたので
振り向いて文句を言った。すると山下先生が前に出てこいと手招きした。

前に行くと靜にならない皆へのみせしめのため、
講堂の壇上から両耳を掴み引っ張り上げて壇上に立たせた。
あのときの耳の痛さと壇上での恥ずかしさは新1年生にとっては強烈だった。

夏休みになると近所の子供達と一緒に魚釣りに行く次兄のうしろについて、
頭には麦わら帽子、片手にバケツ、もう片手には竹の釣り竿を持ち、
半ズボンにランニングシャツ1枚で、西駅裏から甲突川まで歩いて行ったものだ。

現在甲突川は両岸とも公園として整えられており春の桜はきれいなものだが、
当時の甲突川、川岸は両岸ともトタン屋根に壁は板切れを打ちつけただけの
バラックが立ち並んでいた。

バラックの横では板囲いの中で、豚や鶏やアヒルを飼っていた。
湿気がある細い迷路みたいな所を歩くと臭気が漂う。
甲突川に架かる橋の下にも人が住んでいた。

釣り餌はそのバラックで買う。ハエの幼虫ウジ虫を釣り餌にするのだ。
5円を支払うと新聞紙に包んだウジ虫を、バラックのおばさんが掌一杯くれる。

うごめいている白いウジ虫を1匹指にはさんで釣り針につけ川の流れに投げる。
後はウキの動きを目で追うだけだ。
川で気持ちよさそうに水しぶきをあげて泳いでいる子供達もいる。

ウキは球形で上半分が赤色、下半分が白色だ。
赤白の丸いウキが小さくピクピク上下するが、まだ竿を上げない。
ピックンとウキが流れの下に沈んだ。いまだ。
竿を上げるとテグスの先にハヤ(オイカワ)が銀鱗を光らせていた。
たまには鮎が釣れることもあった。

よく釣れるのは皆が「ゴモンチャン」と呼んでいた
川底にはいつくばっている茶色と灰色を混ぜ合わせたような色の小魚だった。

西田橋の下流西側は川底に石が敷きつめてあり、その水苔でヌルヌルした石の上を
バランスをとりながら川岸をはなれ、
かがんで水面の下を見ると黒い糸ウナギが体をくねらせ泳いでいた。  


Posted by gonngoetsu at 00:09Comments(6)自分史(高校卒業迄)

2007年07月07日

三つ子の魂 百まで

1953年

まだ武幼稚園が開園していなかったので、次兄は武保育園に1年間通った。

ある日、すごい雨が降ってきたそうである。
雨で帰れずに、お袋を待っている次兄を迎えにいかなければならない。

お袋はすごい雨の中、私を連れて行くことができずに1人で傘を持って
武保育園まで行ったそうだ。

ますます雨ははげしくたたきつけ雷まで光ったあと、大きな音を響かすことを
繰り返したらしい。

お袋が次兄の手を引き急ぎ足で家に帰り着いてみると
お袋が出かけたとき座っていた同じ場所に
稲光の中で泣かずにチョコンと座っていたらしい。

この話は、お袋から何度も聞かされたが私の記憶にはない。

雨模様のある日、家並びの町田さん宅となりの空き地の道路上に次兄と私、それに
お祖父さんの3人でいた。そこには生垣の竹が繁っていた。

お祖父さんは、繁った竹から器用に笹舟と竹笛を作ってくれた。
その後雨が降ってきたので急いで家に帰ったのを覚えている。

母方の祖父、金治は私が3才のとき亡くなっている。
父方の祖父、和吉は私が2才のときなくなっている。
田舎の市来町から娘の家に遊びにきた、
金治お祖父さんが孫2人の相手をしてくれたのだろう。

グリコのキャラメルに付いてくるオマケの小さなオモチャを飲み込んで
目を白黒している私の口に、お袋が指を入れ取ってくれたときの
「オエーッ」とくる感じも覚えている。

私が産まれたときには既に、お袋は小さな食料品店を商っていた。
まだ動かない頃はよかったが
赤ん坊がハイハイをしだすと、店の客と赤ん坊の両方に対応するのは大変だ。
赤ん坊の腰に紐を結び紐の端を柱に結び、
赤ん坊が縁側から庭に落ちないようにして、客の相手をしていたと言っていた。

次兄の子守は長兄がしたと言っていた。
私の子守は西隣の娘がしてくれた。それで女言葉がすり込まれてしまった。
女言葉が抜けずに困った記憶がある。

長兄は昭和27年12月鹿屋の職場に就職している。
私が2才になる1ヶ月前のことだ。さすがにこの頃の長兄の記憶はない。
しかし家族4人で鹿屋の長兄を訪ねて行ったことは覚えている。
オモチャの刀を買ってもらったこと。職場のトラックだったのだろうか
荷台に抱き上げて乗っけてもらったことも覚えている。

幼い頃の記憶をたどってみると、どうやら3才が限度のようだ。

「三つ子の魂、百まで」とはよく言ったものだ。  


Posted by gonngoetsu at 00:07Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月05日

弟誕生

1954年

我が家の南隣の民家石塀の上を歩いて遊んでいたらしい。

幼い子が大人の背丈ほどもある高い石塀の上を歩いているのだ。
危なっかしい光景だっただろう。案の定バランスを崩し頭から下へ。

コンクリート製の側溝角へ頭から落ちた。
左耳は皮1枚でつながりブラブラしていたそうだ。

入院した病院は西駅一番街にあったような気がする。
見舞いに来た親父と次兄が夕方帰るのを
2階病室の窓から見ていたような気もする。
幼稚園に通う前だから4才の頃のことだ。

当時、我が家の敷地北西の角に古井戸がありその回りにジュズダマが繁っていた。
女の子が遊ぶお手玉の袋の中に入れる実のなるススキみたいな背丈のある草だ。

側溝は流れが悪く水がたっぷり溜まっていて直径が5㎜前後の浮き草がびっしり
水面を覆っていた。水面では何匹もの蛙の目が浮き草の間からこちらを見ている。

ほとんどがネズミ色をしたイボ蛙だが、イボ蛙より大きめで背中に緑縦縞の付いた
殿様蛙もいる。浮かんでいるホテイアオイの葉っぱ裏には雨蛙もいたりする。

雨の日は朝から一日中蛙の大合唱だ。家の中にいてもうるさいくらいであった。

雨の日の縁側は使い古しの浴衣を帯状に切って作った弟のオシメが
竹の物干し竿に所狭しに下がっていた。
お袋がタライで洗濯板を使い手洗いしたばっかりで
滴が縁側の板の上に垂れていたりもした。

その頃の遊び友達は溝之上さんの家手前の借家にいた男の子ともう1人は
「ひっちん」と呼んでいた1学年上の博だった。
いつも3人一緒に遊んだがやがて借家にいた男の子はどこかへ引っ越して行った。

溝之上さんの家手前の借家横には共同水道がありそこで
近所の奥さん達がバカガイ(青柳)と呼ばれている大きな貝の身をナイフで
取り出しているのを見ていたこともある。

その頃食事時になると親父が茶碗の中のご飯を箸で混ぜてネバネバしたものに
味噌汁の汁だけ入れてそれをまた混ぜる。
親父の膝では離乳食期の弟が口を開けて待っていた。

家の障子は上半分が障子紙。下半分は上に一部スリガラス模様入りの
透明ガラスで下は板張りだった。

畳の間から一段低い台所の間にある障子のガラス部分に紙がのり付けしてあり
畳の間から台所が見えないようにしてあったのを覚えている。あのとき
4つ違いの弟が産まれたのであった。

産婆さんに来てもらい
タライにお湯を入れたのを横に置き、自宅台所の板間で出産だった。  


Posted by gonngoetsu at 00:07Comments(0)自分史(高校卒業迄)

2007年07月03日

武幼稚園

1955年

幼い頃の記憶は幾つ位までさかのぼれるものだろう。

記憶の糸を手繰ってみると
七五三のお祝いは近くの建部神社へ親父が自転車の後ろに乗せて
連れて行ってくれたことをはっきり覚えている。

同年代の皆と一緒に神主の後ろに座っていたら、
突然神主が後ろを振り向き私に榊を渡し、すぐ横にいた女の子にも榊を渡した。
この2名が列席者の男代表、女代表として神主の後ろで榊を振るのだ。
恥ずかしさに顔を赤くしながら榊を振ったのを覚えている。

武幼稚園に通ったときのことも思い出せる。菊組で担任は宮田先生だった。
園庭の隅にあった大きな石でできた何かの記念碑。ジャングルジムのあった場所。
ブランコ、すべり台の位置まで覚えている。

運動会の徒競走では1番でゴール寸前まで来ていながらテープを切らず
賞品目当てにゴール右側にある大会本部前に駆け込み笑われたこと。

親子ダンスでは、そのときお袋が足に怪我をして出場できず、
ダンスの輪から1人取り残され、お袋を探しベソをかいたことまで記憶にある。

幼稚園から帰ってくると家の近くで遊ぶ。
幼稚園にはよそゆきのズボンに上着は水色の制服を着て
手提げのバスケットを持って行くが、帰って家の近所で遊ぶときは
2つ違いの次兄のおさがりツギアテのあるズボンだ。

近所の主婦連中は縁側でお茶を飲みながら井戸端会議をしている。
細く切った高菜の漬け物に削った鰹節をまぶし、
それに醤油をかけたのを箸で手にとりお茶を飲んでいる。
ときには私の小さな掌にもその漬け物を乗せてくれたりもする。

3人で井戸端会議をしていた中の1人がツギアテのあるズボンのあて布が
周囲の布の茶色より薄いのを目にしてアヒルの模様が付いていると言った。
私は幼いながらもバカにされたと思った。

そうとう悔しかったのだろう。
5才の頃のことだが今でもその時の場面と誰に言われたかを覚えている。

これを教訓に特に幼い子には自分が味わったようなことをネタに
恥をかかすようなことは言わないようにしている。

あの頃は台風がよくきたように思う。
台風がくるとラジオのスイッチを入れっぱなしにして気象情報を聞く。
どういう分けか夜になると決まって停電していた。

そうなるとローソクの出番だ。
雨漏りもしている。畳の上で洗面器がポタッ、ポタッと音をたてる。

いよいよ台風直撃となると我が家を捨てて
目の前にある付属小学校の教室へ避難する。

いつもと違う環境に興奮して夜はなかなか眠れなかったものである。  


Posted by gonngoetsu at 00:06Comments(5)自分史(高校卒業迄)

2007年07月01日

恐かった仁王様

1962年

ある夏の、夕方のことであった。

自転車に乗って右側に九州電力鹿児島営業所、
左側に県の工業試験場がある小径を真っ直ぐ突き当たり、左に曲がると
右側の数軒先に我が家がある。

自転車のハンドルには、ビニール袋の中で泳いでいる金魚が下がっている。
すでに夕日は落ち、辺りは薄暗くなっている。

今日は武中学校から帰宅後、友人2人と誘い合わせて、
西駅(鹿児島中央駅)東口の六月灯へ行ったのであった。

我々3人が西駅前の広場についたときはまだ露天の出店は準備中で
夜店の予定地は半分以上が空いていた。

そこで我々は何をするでもなく、
これから両側に賑やかな夜店が出現するであろうことを想像し
テキ屋の人達の動きを見ながらブラブラ歩いていると
金魚すくいのおじさんが声をかけてきたのである。一つの取引の提示であった。

我々3人で西駅の待合室便所からバケツで水を汲んできて
金魚すくいをする水槽に水を入れる。
その見返りとしておじさんは金銭を支払うのではなく金魚すくいのすくい紙を
一人につき5コくれる。ということであった。

ヒマを持て余していた3人は喜んでこの話に乗っかり、約200Mの距離を
水を入れたバケツを手に往復したのであるが、バケツの水を数回入れた位では、
なかなかそう簡単には水槽の水は一杯になってくれない。

思っていたよりはるかに時間と労力のかかる仕事であった。
それでもなんとか頑張り、金魚のすくい紙を手に入れたのであった。

予定外の仕事をしたおかげで帰宅の予定時間を過ぎたのは分かっているが
せっかく3人で楽しく遊んでいるのに、自分1人だけ先に帰るわけにはいかない。
友人2人は帰宅時間など全然頭にない様子である。

六月灯の楽しいひと時を過ごした我々は鼻歌まじりにペタルも軽く
前述の我が家への小径を左に曲がると、
夕暮れの薄暗い向こうに見える我が家の前に誰か立ってこちらを見ているのが
私の目にはハッキリ分かった。

親父である。遠くからも怒りの表情が読みとれる。
まるで我々が帰ってくる時間を知っていたかのようにタイミングを合わせてこちらを
仁王立ちで睨みつけているのである。

3人とも話を中断し、急に重くなったペタルを回しながら我が家の前までくると
友人2人はまだ睨みつけている親父の前から逃げるように通り過ぎて行った。

このことがあってから私の親父はもの凄く厳しく恐いという話が
友人間で定着してしまった。

昭和37年7月親父54才。
私が12才の中学1年生で門限破りをしたときの恐かった親父の話である。  


Posted by gonngoetsu at 00:15Comments(0)自分史(高校卒業迄)