2007年12月26日
犠牲際(バクラーイード)
バイクの3人乗り、4人乗り、5人乗りはカラチではよく見かける光景です。
バイク後部座席に横座りで、
乳飲み子を抱いた母親が乗っている光景は見ている方がハラハラします。
バイクに人と、山羊が一緒に乗っている光景は、カラチならではでしょう。
先週は犠牲際でした。
犠牲際の前になりますと、町中のあちこちで山羊が目につきます。
小生の住まい周りでも あちこちから
「べぇ~、べぇ~」 と山羊の鳴き声が聞こえてきます。
この鳴き声は、犠牲際を境にバッタリ静かになります。
山羊が鳴かなくなったのではありせん。山羊の命がなくなったのです。
犠牲際の日は、神に感謝し、豊かな者たちが、家畜(山羊、羊、牛、駱駝)を買い、
食べるため、屠殺して肉にし、自分たちも食べ、
親戚や貧しい人々やモスクなどにも配るそうです。
日本では家畜の屠殺場面を目にすることはありませんが、
カラチでは、
犠牲際という行事で家畜の屠殺場面が日常の生活に入り込んでおります。
メイン道路や裏通り上が屠殺場所になります。
こういう、殺傷の場面を子供の目に晒すことは、
教育上はどうなのかと、思われる方もいらっしゃるでしょう。
日本だと、そこここで行われる屠殺を槍玉に挙げて、
残酷なことは、子供の目に触れるところではやめろと、なるでしょう。
ところが、ここカラチでは子供達は全てを見るわけです。
頭や喉を撫ぜられると人に頭を摩りつけていた、
さっきまで、「べぇ~、べぇ~」と鳴いていた山羊や羊が、大人に押さえつけられ、
のど首を切られ、血を噴いて死ぬ瞬間。 皮を剥ぎ、肉片になるまでの解体作業。
そしてそれがおいしい料理になって自分が味わうまでを。
日本では、スーパーに行けば、肉は調理しやすい大きさに小分けされ、
自分が家畜の命を食んで生きている実感はなんにもありません。
食事をすると言うことは他の生き物の命を奪うということで、
魚も切り身で泳いでいるわけではなく、
肉もスライスやひき肉で歩いているわけでなないということを、
「人がものを食べて生きている」 ということはこういうことであるということを、
実感として知る機会があっても、良いのではないでしょうか。
自爆テロ等、物騒なイスラム社会ですが、
一部のテロ集団を除いた一般イスラム社会では、
お金目当てや目的のわからない殺人などの発生はあまりありないそうで、
子供も犬や猫などの小動物をいじめることが少ないそうです。
殺生事を忌み嫌い、死というものをなるべく目にしない、
不吉な物を遠ざけてきた超クリーンな日本の生活の中では、
こういった違うイスラム文化の中に生き残っている習慣を残酷だとか、
野蛮だと一言でかたづけてしまいそうですが、
むしろそういう場面を見ることが、教育上必要なことかも知れません。
自分達の生が、多くの生き物の死によってささえられている現実を、
小さい頃から学習できるなら、
猫の頭を切り離して公園に投げてみたりする愉快犯的な事件、猫の頭どころか、
人間の頭を小学校校門へ置く分けのわからない、猟奇的な事件。
人を殺してみたかったなんでいう理由のない殺人事件は起こらないのではと、
ピクピク痙攣しながら息絶えていく羊を見ながら思いかたでした。
バイク後部座席に横座りで、
乳飲み子を抱いた母親が乗っている光景は見ている方がハラハラします。
バイクに人と、山羊が一緒に乗っている光景は、カラチならではでしょう。
先週は犠牲際でした。
犠牲際の前になりますと、町中のあちこちで山羊が目につきます。
小生の住まい周りでも あちこちから
「べぇ~、べぇ~」 と山羊の鳴き声が聞こえてきます。
この鳴き声は、犠牲際を境にバッタリ静かになります。
山羊が鳴かなくなったのではありせん。山羊の命がなくなったのです。
犠牲際の日は、神に感謝し、豊かな者たちが、家畜(山羊、羊、牛、駱駝)を買い、
食べるため、屠殺して肉にし、自分たちも食べ、
親戚や貧しい人々やモスクなどにも配るそうです。
日本では家畜の屠殺場面を目にすることはありませんが、
カラチでは、
犠牲際という行事で家畜の屠殺場面が日常の生活に入り込んでおります。
メイン道路や裏通り上が屠殺場所になります。
こういう、殺傷の場面を子供の目に晒すことは、
教育上はどうなのかと、思われる方もいらっしゃるでしょう。
日本だと、そこここで行われる屠殺を槍玉に挙げて、
残酷なことは、子供の目に触れるところではやめろと、なるでしょう。
ところが、ここカラチでは子供達は全てを見るわけです。
頭や喉を撫ぜられると人に頭を摩りつけていた、
さっきまで、「べぇ~、べぇ~」と鳴いていた山羊や羊が、大人に押さえつけられ、
のど首を切られ、血を噴いて死ぬ瞬間。 皮を剥ぎ、肉片になるまでの解体作業。
そしてそれがおいしい料理になって自分が味わうまでを。
日本では、スーパーに行けば、肉は調理しやすい大きさに小分けされ、
自分が家畜の命を食んで生きている実感はなんにもありません。
食事をすると言うことは他の生き物の命を奪うということで、
魚も切り身で泳いでいるわけではなく、
肉もスライスやひき肉で歩いているわけでなないということを、
「人がものを食べて生きている」 ということはこういうことであるということを、
実感として知る機会があっても、良いのではないでしょうか。
自爆テロ等、物騒なイスラム社会ですが、
一部のテロ集団を除いた一般イスラム社会では、
お金目当てや目的のわからない殺人などの発生はあまりありないそうで、
子供も犬や猫などの小動物をいじめることが少ないそうです。
殺生事を忌み嫌い、死というものをなるべく目にしない、
不吉な物を遠ざけてきた超クリーンな日本の生活の中では、
こういった違うイスラム文化の中に生き残っている習慣を残酷だとか、
野蛮だと一言でかたづけてしまいそうですが、
むしろそういう場面を見ることが、教育上必要なことかも知れません。
自分達の生が、多くの生き物の死によってささえられている現実を、
小さい頃から学習できるなら、
猫の頭を切り離して公園に投げてみたりする愉快犯的な事件、猫の頭どころか、
人間の頭を小学校校門へ置く分けのわからない、猟奇的な事件。
人を殺してみたかったなんでいう理由のない殺人事件は起こらないのではと、
ピクピク痙攣しながら息絶えていく羊を見ながら思いかたでした。
2007年12月25日
朝日をおがむ人あれど
12月の7日夜にカラチを発ち、11泊帰国しておりました。
12月20日昼にカラチに戻り、空港を出て写しましたカラチ国際空港です。
早いもので、今年も後1週間ですね。
年々、1年を短く感じます。
毎年、カレンダーが残り1枚になると、ちまたで耳にします。
「1年の過ぎるのは早いですね」 という決まり文句を。
10代の頃の、時間の経過を鈍行SLとしますと、
20代になって快速になり、
30代で急行、
40代で特急になり、
50代で新幹線に乗り換えたみたいな時間の経過でしたが
60代に入ると、ジェット機並のスピードで、時は過ぎていくのでしょうね。
70代になりますと、ロケットのスピードで目的地点へ着くのでしょうか。
なぜ、歳を重ねるとともに1年の経過を早く感じるのか。
1歳の誕生日を迎えた幼児の人生は過去1年しか生きていないので
1年/1歳。1年が人生の全てで100%になります。
2歳を迎えた幼児の人生は過去2年しか生きていないので
1年/2歳。1年が、人生の50%になります。
小学生の頃の時間の経過といったら、
なんであんなにゆっくりだったのでしょうね。早く大人になりたいと思ったものです。
小学4年生は10歳です。
小学4年生は、1年/10歳で、1年が、それまで経験した人生の10%。
小生は57歳ですので、1年/57歳で、1年が、それまで経験した人生の1.75%。
来年感じる1年の長さの体感時間は1.72%。
上記のような論法を、小耳にはさんだことがございます。
過ぎ去った過去の1年と現在を比較しますので年々、1年を短く感じるということは、
こういうことなのでしょうか。それだけ、年齢を重ねたということでしょう。
人に与えられた時間は皆、同じということですが、
セカセカ行くのか、それともゆったり行くのか、人それぞれですね。
まさに 「う世間な、うさっと かめん駆けぐらご」 ですね。
2007年はまもなく幕を閉じます。
「朝日をおがむ人あれど 夕日をおがむ人はない」 串木野さのさ、の一節です。
初日をおがむ前に、沈み行く夕日に心で手を合わせ
過ぎ去ろうとする1年に感謝しつつ、新年を迎えたいものです。
12月20日昼にカラチに戻り、空港を出て写しましたカラチ国際空港です。
早いもので、今年も後1週間ですね。
年々、1年を短く感じます。
毎年、カレンダーが残り1枚になると、ちまたで耳にします。
「1年の過ぎるのは早いですね」 という決まり文句を。
10代の頃の、時間の経過を鈍行SLとしますと、
20代になって快速になり、
30代で急行、
40代で特急になり、
50代で新幹線に乗り換えたみたいな時間の経過でしたが
60代に入ると、ジェット機並のスピードで、時は過ぎていくのでしょうね。
70代になりますと、ロケットのスピードで目的地点へ着くのでしょうか。
なぜ、歳を重ねるとともに1年の経過を早く感じるのか。
1歳の誕生日を迎えた幼児の人生は過去1年しか生きていないので
1年/1歳。1年が人生の全てで100%になります。
2歳を迎えた幼児の人生は過去2年しか生きていないので
1年/2歳。1年が、人生の50%になります。
小学生の頃の時間の経過といったら、
なんであんなにゆっくりだったのでしょうね。早く大人になりたいと思ったものです。
小学4年生は10歳です。
小学4年生は、1年/10歳で、1年が、それまで経験した人生の10%。
小生は57歳ですので、1年/57歳で、1年が、それまで経験した人生の1.75%。
来年感じる1年の長さの体感時間は1.72%。
上記のような論法を、小耳にはさんだことがございます。
過ぎ去った過去の1年と現在を比較しますので年々、1年を短く感じるということは、
こういうことなのでしょうか。それだけ、年齢を重ねたということでしょう。
人に与えられた時間は皆、同じということですが、
セカセカ行くのか、それともゆったり行くのか、人それぞれですね。
まさに 「う世間な、うさっと かめん駆けぐらご」 ですね。
2007年はまもなく幕を閉じます。
「朝日をおがむ人あれど 夕日をおがむ人はない」 串木野さのさ、の一節です。
初日をおがむ前に、沈み行く夕日に心で手を合わせ
過ぎ去ろうとする1年に感謝しつつ、新年を迎えたいものです。