2008年10月14日
木彫り
ずっしりと重たい木です。
土産物屋さんの言うには、アフリカ黒檀と言うことです。
2個買ってしまいました。
値段は交渉次第で、言い値の3分の1位でも買えます。
From マプト(モザンビーク)
2008年10月13日
要塞(Fortaleza)
モザンビークの植民地政策に使われました。
塀の右側が城壁内部で、城壁左側にはインド洋が広がっています。
入館料は無料で、9:00から17:00までオープンしています。
住所:Praca 25 de Junho
2008年10月12日
2008年10月06日
シーラカンス
シーラカンスの剥製を昨日、見に行きました。大きさは約1.5Mあります。
1991年頃、モザンビークで操業していた日本漁船が捕獲したそうです。
体内には24匹の稚魚がいたそうです。
モザンビークのマプト市にある
自然史博物館(Museu de Historia Natural)Tel 21-485401に
展示してあります。
入館料はMt50(約200円)です。日曜日は無料だそうです。
外国の博物館では写真撮影は禁止されているところもありますが
ここは、写真OKでした。
2008年10月04日
2008年10月01日
ホテルの窓から
ホテル前の道路上中央分離帯で商っているお土産屋さんです。
モザンビークのマプトにいます。
建物と建物の間の立木の向うに、インド洋が見えます。
今、こちらの時間は10月1日午後12時16分です。
2008年09月29日
2008年08月16日
永吉駅(南薩線)②
線路跡はサイクリングロードとして整備されております。
ホーム南側にありました駅舎は取り壊されており更地になっておりました。
8月11日から4泊、帰省して、
永吉駅跡には一昨日の14日に墓参りをかねて行きました。
12日は下荒田町の春本旅館で鹿工卒業40周年のクラス同窓会がありました。
我々の世代は、人数が多く、
小さい頃から、画一的な枠の中で競争、競争に明け暮れて、
何かにつけ自分を他人と必要以上に、比較しがちでした。
あいつはいい学校に入ったとか、いい会社に就職したとか。
俺はあいつより遅れ差がひらいたとか。
押付けられた価値観を目の前にぶら下げられて、踊らされていたようにも思います。
しかし、実際にうぜけん(社会)に出てみますと、色々ありました。
バブルでいい思いをして何時までもこの状態が続くと錯覚し、
羽目を外し失敗したり、地道にやっても報われなかったり。
高校卒後40年。この年齢になり
同窓会に出席し欠席者の情報を耳にいたしますと、人の世の浮き沈みというか、
最近は人生の悲哀を感じることさえあります。もちろん懐かしい面々との
再会は心弾むものがあるのですが。
我々のクラス同窓会は卒業以来、夏、冬、毎年2回確実に行われており、
今年夏の同窓会は卒業後80回目の同窓会でした。
2008年07月31日
永吉駅(南薩線)①

駅舎の中には4歳の息子。(1986年夏)
薩摩半島西海岸を伊集院から枕崎まで走っていた私鉄を覚えている人が、
鹿児島県人でどれくらいいるでしょうか。
もの心ついた頃から、親父に連れられ10数年間に渡り、
年2回の墓参りの際に利用した南薩鉄道。
自宅から歩いて3分の西駅(鹿児島中央駅)で国鉄(JR)に乗り、伊集院駅で
南薩線に乗り換えて、伊集院駅から、上日置駅、日置駅、吉利駅、永吉駅まで。
13Km弱の南薩線鉄路の旅でした。子供の頃は、なにかとてつもなく遠くへきた
長旅に感じたものでした。
子供の頃の永吉駅に思いを馳せると、
「駅舎周りの田んぼを、赤とんぼが飛び回っていた。」
「近くの川を木製橋の上から、川面を見ると、ボラの子が泳いでいた。」
「海岸の墓への砂道を歩くと、
松の木の根っ子では逆さまの砂円錐で蟻地獄が獲物を待っていた。」
墓参りの帰り、親父の機嫌が良かった時は、
伊集院駅で伊集院饅頭を買ってもらえる楽しみもありました。
成人してからは、
墓参りはマイカーで行くことになり南薩線に乗ることはなくなりました。
昭和1984年に廃止になる前年の冬は、
女房子供に親父を連れて、薩摩湖駅まで記念乗車したこともありました。
来月は11日から4泊帰省します。
久しぶりに、永吉駅跡に行ってみようと思っています。
2008年06月28日
戦に 敗れし國や 同胞の
戦に 敗れし國や 同胞の 末想ひつつ 吾は行くなり
故 陸軍中佐 永友吉忠
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
故 陸軍中佐 永友吉忠
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月27日
巡り会ひ 吹雪の荒む 事あるも
巡り会ひ 吹雪の荒む 事あるも
やがて成るらん 春な忘れぞ
故 陸軍少将 渡邊三郎 (広島県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
やがて成るらん 春な忘れぞ
故 陸軍少将 渡邊三郎 (広島県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月26日
憂きことの 絶えぬ獄屋の 日々なるも
憂きことの 絶えぬ獄屋の 日々なるも
大詔 畏みて忍ぶる
故 中村閣下
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
大詔 畏みて忍ぶる
故 中村閣下
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月24日
日の本に 日の本の民の みつる日が
日の本に 日の本の民の みつる日が
我が日の本の 國の立つ日ぞ
故 馬杉中佐
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
我が日の本の 國の立つ日ぞ
故 馬杉中佐
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月23日
三途の川 六道の辻 閻魔の佇
三途の川 六道の辻 閻魔の佇
地獄極楽 既に通りぬ
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
地獄極楽 既に通りぬ
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月22日
國の為 捨てし吾身を 語りつつ
國の為 捨てし吾身を 語りつつ
戦敗れて 裁判ることぞ口惜しき
故 上村栄吉
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
戦敗れて 裁判ることぞ口惜しき
故 上村栄吉
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月21日
驚天動地傅休戦 悲憤紅涙流不儘
驚天動地傅休戦 悲憤紅涙流不儘
憂國勇士相共逝 魂魄永留慈昭南
故 憲兵中尉 芥川光哉
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
憂國勇士相共逝 魂魄永留慈昭南
故 憲兵中尉 芥川光哉
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月19日
妹よ 病児を授けて 懇ろに
妹よ 病児を授けて 懇ろに
父母の祭りを たやさざらめや
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
父母の祭りを たやさざらめや
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月17日
人生意気あり 意氣天に通ずれば
人生意気あり 意氣天に通ずれば
前途光明を 認め得む
故 陸軍少佐 水谷藤太郎
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
前途光明を 認め得む
故 陸軍少佐 水谷藤太郎
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月16日
さすらひの 日毎夜毎に想ふかな
さすらひの 日毎夜毎に想ふかな
散り行く人の 胸や如何にと
故 憲兵中尉 村上馬作 (石川県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
散り行く人の 胸や如何にと
故 憲兵中尉 村上馬作 (石川県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月15日
敷島の 嵐と共に 消ゆるとも
敷島の 嵐と共に 消ゆるとも
春来たりなば 人顧りみん
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
春来たりなば 人顧りみん
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月14日
たとへ身は 南の露と 消ゆるとも
たとへ身は 南の露と 消ゆるとも
護り通さん 大和島根を
故 三橋司政官 (青森県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
護り通さん 大和島根を
故 三橋司政官 (青森県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月13日
誠もて 盡せし道は 変らねど
誠もて 盡せし道は 変らねど
敗けにし身にぞ 嵐吹くらん
故 臼杵喜司穂 (新潟県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
敗けにし身にぞ 嵐吹くらん
故 臼杵喜司穂 (新潟県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月12日
七世の 誠を盡せ 大君に
七世の 誠を盡せ 大君に
雄々しく行かん 武夫の道
故 憲兵曹長 辻豊次
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
雄々しく行かん 武夫の道
故 憲兵曹長 辻豊次
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月11日
散ればとて 何を惜しまん 大君の
散ればとて 何を惜しまん 大君の
御楯と生を 享けし身なれば
故 兵技中尉 渡部一正
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
御楯と生を 享けし身なれば
故 兵技中尉 渡部一正
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月10日
正を邪と 仇人共に 裁判かれて
正を邪と 仇人共に 裁判かれて
恨みを残す チャンギーの獄
故 憲兵曹長 野澤藤一 (宇都宮出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
恨みを残す チャンギーの獄
故 憲兵曹長 野澤藤一 (宇都宮出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月09日
幾何も なき我が命と 知り乍ら
幾何も なき我が命と 知り乍ら
朝粥の「もみ」 選るぞ悲しき
故 陸軍主計曹長 栄島信夫 (鹿児島県曽於郡末吉町深川出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
朝粥の「もみ」 選るぞ悲しき
故 陸軍主計曹長 栄島信夫 (鹿児島県曽於郡末吉町深川出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月08日
万才を 唱へて吾も 武夫の
万才を 唱へて吾も 武夫の
逝く表道を 行ききわめばや
南漠の 嵐に幹の 吹き折れて
実のらざるまま 枯れ果つるかも
故 憲兵大尉 原田賢正 (熊本県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
逝く表道を 行ききわめばや
南漠の 嵐に幹の 吹き折れて
実のらざるまま 枯れ果つるかも
故 憲兵大尉 原田賢正 (熊本県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月07日
今更に 何をか嘆かん 武夫の
今更に 何をか嘆かん 武夫の
御國の為に 逝くと思へば
故 陸軍中尉 小久保弥太郎 (千葉県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
御國の為に 逝くと思へば
故 陸軍中尉 小久保弥太郎 (千葉県出身)
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
2008年06月06日
身は遠き 異國の野辺に 朽ちるとも
身は遠き 異國の野辺に 朽ちるとも
守りおかまじ 皇國を
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。
守りおかまじ 皇國を
作者不詳
昭和22年1月、小生の親父が南方より復員の際、復員船「朝嵐丸」に
乗り合わせた方がシンガポール・チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方達が
獄中の壁に残された和歌、俳句、漢詩等を一冊のノート書き写されて所持されて
いたものを転写したものです。