2007年08月14日
市来町湊町
日置郡市来町湊町で、
大正5年2月12日、金治とトミの間に、女の赤ん坊 (私の母) が生まれた。
トミの父親、
勘太郎は安政4年7月生まれでキセルを手にしたなかなか厳しい人だったらしい。
勘太郎が生まれた翌年に、安政の大獄があり、吉田松陰は死刑、
西郷隆盛は、京都から薩摩まで逃げたが、追い詰められて、
月照と言う僧と共に、竜ヶ水沖の舟上から身を投げたという事があった頃だ。
勘太郎が20才の頃、西南戦争があった。
勘太郎の父、庄兵衛は文久4年7月に生まれている。
庄兵衛が10代のはじめの頃、当時の日本は、将軍家でも大名でも財政が苦しく
領内の金持ちの商人や、大地主から御用金と言って金を借り、
そして借りた金を権力で返さなかったり、農民や町人の税を重くした。
そこへ大風がきたり、長雨が降ったりして米、雑穀が穫れずそういう年は
大勢の人達が死んだそうだ。それは天保の大飢饉と呼ばれている。
大塩平八郎の乱は、庄兵衛が15才の頃のことだ。
明治34年2月、庄兵衛が亡くなる5年前、日本は日清戦争に勝利し
台湾を併合して太平洋戦争に敗れるまでの50年間、自国の領土にしていた。
庄兵衛の父は庄右衛門という。
庄右衛門の長男が庄兵衛で、4男の吉左衛門は明治29年4月に、
鹿児島県南伊作郡宮之城村湯田95番地へ62才で分家している。
勘太郎は昭和11年1月に、鹿児島市山之口町52番地で79才の生涯を閉じた。
金治の父親は、天保11年生まれの善右衛門と言い、
善右衛門の父親は精右衛門と言う。
母は、昭和5年3月西市木尋常高等小学校を卒業し、
郷里の先輩を頼って、兵庫県神戸市林田区東池尻町の兵庫病院で
看護婦見習いとして働き、昭和7年5月施行の看護婦試験に合格している。
その後、兵庫病院を辞めて郷里の市来へ帰り、
天文館電停前の高島屋デパート右隣にあったレコード楽器店へ勤めている。
レコード楽器店在職中に、25才の母は再婚で6才の男の子がいる
33才の父とお見合いをして、昭和16年8月婚姻届けを出している。
大正5年2月12日、金治とトミの間に、女の赤ん坊 (私の母) が生まれた。
トミの父親、
勘太郎は安政4年7月生まれでキセルを手にしたなかなか厳しい人だったらしい。
勘太郎が生まれた翌年に、安政の大獄があり、吉田松陰は死刑、
西郷隆盛は、京都から薩摩まで逃げたが、追い詰められて、
月照と言う僧と共に、竜ヶ水沖の舟上から身を投げたという事があった頃だ。
勘太郎が20才の頃、西南戦争があった。
勘太郎の父、庄兵衛は文久4年7月に生まれている。
庄兵衛が10代のはじめの頃、当時の日本は、将軍家でも大名でも財政が苦しく
領内の金持ちの商人や、大地主から御用金と言って金を借り、
そして借りた金を権力で返さなかったり、農民や町人の税を重くした。
そこへ大風がきたり、長雨が降ったりして米、雑穀が穫れずそういう年は
大勢の人達が死んだそうだ。それは天保の大飢饉と呼ばれている。
大塩平八郎の乱は、庄兵衛が15才の頃のことだ。
明治34年2月、庄兵衛が亡くなる5年前、日本は日清戦争に勝利し
台湾を併合して太平洋戦争に敗れるまでの50年間、自国の領土にしていた。
庄兵衛の父は庄右衛門という。
庄右衛門の長男が庄兵衛で、4男の吉左衛門は明治29年4月に、
鹿児島県南伊作郡宮之城村湯田95番地へ62才で分家している。
勘太郎は昭和11年1月に、鹿児島市山之口町52番地で79才の生涯を閉じた。
金治の父親は、天保11年生まれの善右衛門と言い、
善右衛門の父親は精右衛門と言う。
母は、昭和5年3月西市木尋常高等小学校を卒業し、
郷里の先輩を頼って、兵庫県神戸市林田区東池尻町の兵庫病院で
看護婦見習いとして働き、昭和7年5月施行の看護婦試験に合格している。
その後、兵庫病院を辞めて郷里の市来へ帰り、
天文館電停前の高島屋デパート右隣にあったレコード楽器店へ勤めている。
レコード楽器店在職中に、25才の母は再婚で6才の男の子がいる
33才の父とお見合いをして、昭和16年8月婚姻届けを出している。
Posted by gonngoetsu at 00:04│Comments(0)
│自分史(高校卒業迄)