2007年08月12日
高校3年生(Ⅱ)
1968年
高校3年生になって間もなく、○美と知り合った。
当時、親父が高校生男女の交際を認めてはくれなかったので、
電話は、こちらからかけるだけの一方通行。
手紙は出せるが、受取は友人宛に友人の家に出してもらい、
友人経由で手紙が届くといった、不便な付き合いだった。
週1回のデート場所は、常磐町の公園だった。
親父に無理を言って、買ってもらった
中古のホンダCS90 (バイク) の後ろに乗せて、
夏になると磯や、重富の海水浴場へ行った。
霧島の大浪の池へ紅葉を見に行ったこともあった。
○美は鹿実践高3年生だった。鹿実践高、秋のバザーに行ったこともあった。
ボウリング全盛期の頃であった。
早朝ボウルと言って、朝早くボウリング場へ行くと割引料金で安くゲームができた。
城山ボウリング場へ、朝早く家を出ようとしたら親父に止められた。
「高校生はボウリング場へ行ってはいかん」 と言っているのだ。
私は焦った。○美が待っているのだ。
騒ぎを聞いて寝床から起きてきた次兄まで、親父と一緒になって私を止めにかかる。
引き留める2人を振りきって、
待ち合わせ時間に遅刻した私を、約束の場所で○美は待っていた。
横山欣司の司会で、11月県医師会館であった
グループサウンズの、レコードコンサートに一緒に行ったのが、
最後のデートになった。
友人宛にきた私宛の手紙に、別れの言葉は書いてあった。
○美は東京のデパートへ就職するんだと言っていた。
次兄とは年齢が近いこともあり、よく兄弟喧嘩をした。殴り合いをしたこともあった。
そんな兄弟ではあったが、小3の頃、次兄に助けられた思い出がある。
武小北門を出た下校時、「まてーっ」 と言いながら、
上級生の男が向かって走ってきた。顔は知っていたが話したことのない男だ。
男が言うには、私がその男の目玉を
「ドングリ目玉」 と言ってバカにしたと怒っていた。
確かにドングリ目玉の顔をしていた。
悪口を言って逃げた男はよく特徴を捉えていた。
しかし悪口を言って逃げた男は私ではなかった。
弁解しようにも、突然現れた上級生の剣幕に押され口が上手く動かない。
ドングリ目玉野郎は私の胸ぐらを掴み、今にも殴りかからんばかりだった。
そのとき 「いけんしたとョ」 次兄が4、5人のグループで通りかかった。
それで助かった。
鹿工の同級生は、約8割が県外就職だった。
私も都会に対する憧れは強かったが、
それは高1の時痛め、痛みが残っている左足左腰が許さなかった。
卒業時の謝恩会は、
瀬川洋一郎の司会で県の体育館を借りて、全校生徒参加であった。
クラスからエレキバンドが出場することになり、
メンバー不足で私もエレキギターを抱えてステージに立った。
リードギターは音感抜群の岩元。ドラムはバンドリーダー格の伊集院。
ベースは安田で、私は急遽3曲分のギターコードを覚えリズムギターを担当した。
オープニング曲は、ベンチャーズの 「ブルドッグ」。
曲に合わせ緞帳が少しずつ上がった。
2曲目と3曲目は弾厚作、作曲の
「君といつまでも」 と 「ブラックサンドビーチ」 だった。
「ブラックサンドビーチ」 の曲の流れに乗って、私の高校生活は終わった。
高校3年生になって間もなく、○美と知り合った。
当時、親父が高校生男女の交際を認めてはくれなかったので、
電話は、こちらからかけるだけの一方通行。
手紙は出せるが、受取は友人宛に友人の家に出してもらい、
友人経由で手紙が届くといった、不便な付き合いだった。
週1回のデート場所は、常磐町の公園だった。
親父に無理を言って、買ってもらった
中古のホンダCS90 (バイク) の後ろに乗せて、
夏になると磯や、重富の海水浴場へ行った。
霧島の大浪の池へ紅葉を見に行ったこともあった。
○美は鹿実践高3年生だった。鹿実践高、秋のバザーに行ったこともあった。
ボウリング全盛期の頃であった。
早朝ボウルと言って、朝早くボウリング場へ行くと割引料金で安くゲームができた。
城山ボウリング場へ、朝早く家を出ようとしたら親父に止められた。
「高校生はボウリング場へ行ってはいかん」 と言っているのだ。
私は焦った。○美が待っているのだ。
騒ぎを聞いて寝床から起きてきた次兄まで、親父と一緒になって私を止めにかかる。
引き留める2人を振りきって、
待ち合わせ時間に遅刻した私を、約束の場所で○美は待っていた。
横山欣司の司会で、11月県医師会館であった
グループサウンズの、レコードコンサートに一緒に行ったのが、
最後のデートになった。
友人宛にきた私宛の手紙に、別れの言葉は書いてあった。
○美は東京のデパートへ就職するんだと言っていた。
次兄とは年齢が近いこともあり、よく兄弟喧嘩をした。殴り合いをしたこともあった。
そんな兄弟ではあったが、小3の頃、次兄に助けられた思い出がある。
武小北門を出た下校時、「まてーっ」 と言いながら、
上級生の男が向かって走ってきた。顔は知っていたが話したことのない男だ。
男が言うには、私がその男の目玉を
「ドングリ目玉」 と言ってバカにしたと怒っていた。
確かにドングリ目玉の顔をしていた。
悪口を言って逃げた男はよく特徴を捉えていた。
しかし悪口を言って逃げた男は私ではなかった。
弁解しようにも、突然現れた上級生の剣幕に押され口が上手く動かない。
ドングリ目玉野郎は私の胸ぐらを掴み、今にも殴りかからんばかりだった。
そのとき 「いけんしたとョ」 次兄が4、5人のグループで通りかかった。
それで助かった。
鹿工の同級生は、約8割が県外就職だった。
私も都会に対する憧れは強かったが、
それは高1の時痛め、痛みが残っている左足左腰が許さなかった。
卒業時の謝恩会は、
瀬川洋一郎の司会で県の体育館を借りて、全校生徒参加であった。
クラスからエレキバンドが出場することになり、
メンバー不足で私もエレキギターを抱えてステージに立った。
リードギターは音感抜群の岩元。ドラムはバンドリーダー格の伊集院。
ベースは安田で、私は急遽3曲分のギターコードを覚えリズムギターを担当した。
オープニング曲は、ベンチャーズの 「ブルドッグ」。
曲に合わせ緞帳が少しずつ上がった。
2曲目と3曲目は弾厚作、作曲の
「君といつまでも」 と 「ブラックサンドビーチ」 だった。
「ブラックサンドビーチ」 の曲の流れに乗って、私の高校生活は終わった。
Posted by gonngoetsu at 00:12│Comments(0)
│自分史(高校卒業迄)