< 2025年05月 >
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
プロフィール
gonngoetsu
gonngoetsu
写真は死海で浮かんだときのものです。関東在住の団塊世代です。
鹿児島市には37歳まで住んでおりました。10代の中頃から、エルヴィスとビートルズを聴き初め、いまだに聴いております。
オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 11人
アクセスカウンタ
QRコード
QRCODE

2007年08月20日

1982年(Ⅱ)

お袋にあいそをつかされて、もう二度と手の届かない所へ逃げられた。

止まらない涙の中で、なぜかそんなことを考えていた。
とにかく、お袋を連れて帰らなければ。
病院の公衆電話から、自宅の女房に電話をした。
「お袋が死んだ」 と言ったら、受話器から 「ウソでしょう」 と返ってきた。

棺桶を担いで自宅へ入るとき、又こみ上げてきた。
僅か50日前に自宅を出るときは、元気になって帰ってくるつもりだっただろうに。

床の間には、女房が北枕の布団を敷いてくれていた。
親父が台所に置いてある目覚まし時計を見て、ビックリしていた。
午後2時56分で、止まっていた。お袋の死亡時間と、ほぼ一致していた。
無宗教で魂の存在を信じない私だが、
このときは医者の書いた死亡診断書の死亡時間が間違っており、
むしろ、この目覚まし時計の針先が指している時間に、亡くなったと私には思えた。

死亡診断書に書いてある死亡時間は、午後2時55分で、
発病年月日が9月1日になっていて、直接死因は急性心臓麻痺。
急性心臓麻痺の原因は心不全。
心不全の原因は、心臓肥大症兼冠状動脈硬化症と書いてあった。

入院時に、急性肺炎を起こしていたとも書いてあった。
お袋が入院したあと、部屋に転がっていた、
40度を超える目盛りの体温計が、目に浮かぶ。

次の日が葬式だった。
坊主と葬儀社の人の手順どおりに式は進み、もう霊柩車が待機している。

いよいよ、棺桶の蓋を釘で打ちつけなければならない。
弟嫁が、生前めったにつけることのなかった、お袋の唇に口紅を引き、
死化粧をしてくれた。

長兄が最後の別れをし、次兄がそのあとに続いた。
私の順番がきた。死んだとは言え、まだ今までは顔を見ることができたが、
あと数分したら、もうそれもできない。

誰にとっても、幾つになっても、母親は世界一である。
お袋にはいろんな物をもらった。先ずこの世に生んでもらい命をもらった。
その後、32年間にわたり数え切れないくらいの愛情を注いでくれた。
私のすべてを受け入れてくれた、お袋だった。

「子を持って、始めて知った、親の恩」 と言うが
その年の7月に私も長男に恵まれたばかり。
長男を可愛がってもらう矢先であった。

柩の中の額に、左手を置いてみた。ビックリするほど冷たい。

「お母さん、ゴメンなぁー」 と言うつもりが、言葉にならない。

霊柩車はクラクションを響かせ、靜に自宅をあとにした。
唐湊の火葬場に着いて遺体を焼く前に、火葬場の係の人が、
我々に焼却の確認をした。焼却前に遺族に確認をするようになっていたのだろうか。
その返事が、どうしてもできない。ようやく、長兄が頼んでくれた。

焼き上がった骨は白く、くずれていた。
余熱で熱い骨を、箸で拾い骨壺には目一杯詰め、喉仏を上に置き蓋をした。

お袋が亡くなって数日後、病院から親父に電話があったらしい。
ベッドの後かたづけしていたら、
敷布団の下から写真が出てきたから、取りにくるようにと。

お袋の父親、金治のセピア色に変色した、顔写真だった。
お袋は、どんな気持ちで父親の写真を敷き布団下に、しのばせたのだろうか。

納骨は12月の下旬。
昭和57年は終わろうとしていた。
長年住み慣れた武町経由で、武岡墓地へ向かったのであった。

同じカテゴリー(自分史Ⅳ(昭和57年))の記事
 1982年(Ⅵ) (2007-08-28 00:08)
 1982年(Ⅴ) (2007-08-26 00:06)
 1982年(Ⅳ) (2007-08-24 00:04)
 1982年(Ⅲ) (2007-08-22 00:02)
 1982年 (2007-08-18 00:08)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
1982年(Ⅱ)
    コメント(0)