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gonngoetsu
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写真は死海で浮かんだときのものです。関東在住の団塊世代です。
鹿児島市には37歳まで住んでおりました。10代の中頃から、エルヴィスとビートルズを聴き初め、いまだに聴いております。
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2007年08月18日

1982年

ここがバスの終点だ。

なんてへんぴな所だろう。
山の中腹から上は、薄い霧に覆われて山頂は望めない。初めて見る風景である。
とても人が住んでいるとは思えない。仙人部落でもありそうな山奥だ。

オンボロバスの乗客は私一人。
それにしても、どうしてこんな所に来てしまったのだろう。
乗ってきたバスは昔懐かしい、ボンネットバスであった。
ボンネットバスは停留所に停車して乗客を待っているが、辺りに人の気配はない。

さて、これからどうしょうかと思っていると、前方に延びている未舗装の山道を、
こちらに向かって女の人が歩いてくるではないか。

「アッ、お母さん」
なんと、お袋ではないか。
見覚えのある茶色っぽい地味な服を着ている。靴も茶色だ。
しかし、なぜこんな所にと走り寄って声をかけた私に、顔の前で手を左右にして
「違う。私はあなたの母親ではない」 と言う。

そんなバカな。どこからどう見ても、私のお袋なのに。
どうしてそんなことを言うのだろうか。釈然としない私を残して、今来た道を
山の方へ帰りかけた。まだ会話を続けたい。まだ話は終わっていないではないか。

「チョット待ってくれ」

ここで目が覚めた。お袋が亡くなってもうすぐ半年が経つ。
その間夢でもいいから会いたいと思っていたが、
初めてみた夢で親子関係を否定されたみたいで、なんとも複雑な寝覚めである。


昭和57年11月18日、朝いつものように自宅を出、加治屋町の会社に出勤した。

だいぶ長くなった髪の毛が気になっていた私は、
午後から二中通りのセイカスポーツセンター前にある、
いきつけの床屋でサッパリしたあと、ついこの前まで住んでいた、
まだ所帯道具がほとんど置いてある鴨池町の誰も住んでいない家へ行き、
2階へ上がり腰を下ろすと同時に、電話のベルが鳴った。

福岡の義姉の声だ。お袋の容態が悪い旨、親父から電話をもらったとのこと。
10秒間話を聞いただろうか。

月極賃貸駐車場まで急な下り坂を100M走り、
高麗通りを西田橋へ向けて車を飛ばした。

昨日見舞ったときはこちらに背中を向けて、横向きに寝ていた。
それまでは、いつも仰向けで苦しそうな息をしていたので、
その横向きが少し楽そうに見えた。

それなのに、親父が福岡に住む長兄の所に電話をして、義姉が電話をしてきた。
それだけでただならぬことだ。

病院の駐車場へ車を置き、階段を駆け上がって、病室のノブを回した。

弟が涙を流しながら、お袋の心臓マッサージをしていた。私はお袋の顔をみた。
「アー、駄目だ」 弟もあきらめて、まだ温かいお袋の体から手を離した。

そのときは、もう医者も看護婦もいなくて、
親父も電話連絡のためだろうか見あたらない。

そこには弟と私、それにもう動かなくなったお袋がいた。

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