串木野村下名

gonngoetsu

2007年08月16日 00:06

私の父は 明治40年12月30日に、日置郡串木野村下名で生まれている。

父は、昭和9年8月、26才の時に、
日置郡下伊集院村神之川から、25才のシケを嫁に迎えた。
2人の間には、2人の男の子がうまれた。
父は昭和13年5月支那事変の、充員招集を受けている。

2年間の出征中に、妻と次男を亡くしている。
父はこう記している。


「可愛い盛りの、2児と愛妻とを、一枚の赤紙 (召集令状) に引き裂かれ、
昭和13年5月召されて、第106師団衛生隊本部に編入され、
6月中支蕪湖に上陸以来、
昭和15年4月招集解除に至る迄2カ年間、中南支の各地を転戦中、
昭和13年11月愛妻シケが亡くなり、翌昭和14年11月愛児の次男を失う。

愛妻シケは30才。次男は3才の共に若い生涯を夫に、そして父親に
看取られることなく寂しく逝ったのである。
運命とは言え2人の臨終に立ち会えなかった悲しさ、
当時としては女々しいこととして表に現せなかったものの、
薄命薄幸であった2人の死を知ったとき
人知れず滲みでる涙を隠すことができなかった。

愛妻シケは僕の応招時、実家に於いて病気療養中であった。
出発に先立ちその実家を訪れ病床を見舞い同夜1泊。

翌日、最後の別れに際し病床に起座して

『明日、故郷を出発なさる時刻には、東方を拝して万才を唱えます』 と、
言ってくれた。健気なこの言葉が僕には最後の言葉になったのである。

『一生懸命療養につとめ、1日も早く全快して僕の帰還を待っていてくれ。
2児のことは、くれぐれも頼む』 と
言い残して別れたのであった。

僕の帰りを待たず愛妻シケは遂に不帰の人となったのである」


父は 6才の長男を連れ33才で、25才の母と昭和16年8月に再婚した。

2人の間の最初の子は、昭和20年8月9日、母の実家で疫痢で死亡した。
最後の言葉は 「ご飯が食べたい」 と、言ったそうだ。
今では想像もできないくらいの、極度の食糧難の頃である。
サツマイモの蔓とか、大根の葉っぱを煮炊きして、飢えを凌いだ時代である。
目の前でお腹を空かせて死んでいく、
我が子の最後の願いも叶えてやれなかった。

空きっ腹のまま死んで逝った。「白い、お米のご飯を食べたい」 と、言いながら。
3才3ヶ月だった。

死んだ時は空襲警報中で、母の実家の住人は、家裏の防空壕へ避難しており、
母が1人で空襲警報の中、最後を看取った。

死んで1、2時間後には、真夏の暑さのため小さな体には、
ウジ虫が湧いたそうだ。6日後、太平洋戦争は終わった。

父は婚姻届をだした3ヶ月後の、11月
南方派遣のため、門司港を出航していて、
翌昭和17年2月、シンガポールに上陸していたが、終戦により、
捕虜収容所での生活を過ごした後、動員下令より、約5年半後の、
昭和22年2月、長崎県佐世保に上陸し、5日に復員してきた。

復員後、3人の男の子がうまれた。

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